「元気そうじゃないか。てっきり下半身不随になっているだろうと思い、下の世話をしてやらんといかんだろうと思って来たけど、この分なら大丈夫だな。だけどお前さんのためには下半身が役に立たなくなった方がよかったと思うが」
入院二日か三日目に見舞いに来てくれた友人が笑いながらからかい、持ってきた果物を置いて帰っていったが、言葉の上だけだったとしても、下の世話をしてやらなねば、と言ってくれた気持はとてもうれしかった。
友人と相前後してO県から両親が出て来た。誰かが知らせたのだろう。母親は怪我をしたと聞き、とても心配したようで、「どれほど心配させられたことか」と後々までNに小言を言っていた。そんなお袋の小言を弟は事あるごとに聞かされていたのだろう、兄弟喧嘩になる度に「兄貴は親に迷惑をかけて」とNを詰り続けた。
「退院したい」。Nは両親に実家に連れて帰って欲しいと頼んだ。
「その身体では歩けないだろう。先生もまだダメだと言っているし」
「列車で帰るのはしんどいけど、船だと横になっていられるから負担が少ないと思う。神戸からの列車がちょっときついけど、なんとかいけると思う」
医者の言う通りもう少し入院していろと言う親父に「先日、私服が病院にやって来て色々聞こうとして帰ったけど、あいつらきっとまた来ると思うし、うるさいから、ここに居たくない」と退院を急ぐ理由を説明し、驚く医師には両親が来てくれたので、自宅に連れて帰ってもらうことにしたなどと説明し、翌日無理やり退院し、その足で高浜港に向かい関西汽船の大阪南港行に乗船した。
在学中、関西汽船はよく利用した。乗るのはほとんど夜行船で、夕方、松山高浜港から乗船すれば翌朝6時頃に大阪南港に着いたし、逆航路も大体時間帯は同じぐらいだった。
二等船室は箱で囲われた10畳程の広さがあっただろうか、そうした囲いがいくつかあり、薄汚れた絨毯敷の上で毛布1枚を掛けての雑魚寝だったが、辛うじて横になって眠られるのと船賃が安いのとで、幾度か乗り継がなければならない列車より、寝ている間に着く船便の方をよく利用した。
関西汽船が順調だったのは1967年頃までで、別府温泉が新婚旅行客等で賑わった頃と軌を一にし、関西方面から別府へ旅行客をどんどん運んでいたが、その後の経営は苦しく経営母体がくるくる変わっていく。
時代が急速にモータリゼーション化していき、車が乗船できない船客中心の船からは客足が遠のいていく。その後、フェリーを就航させ、経営の立て直しを図ろうとしたが、参入が他社に比べ遅かったことと、乗用車50台のみでトラックの乗船がなかったことなどの判断ミスもあり再建は思うように進まず、来島どっくに再建を託すことになる。
その来島どっくも造船不況や韓国の台頭、円高などによりグループの収益は悪化し、1986年に経営破綻した。翌87年に造船事業は新来島どっくに譲渡され現在に至っているが、新来島どっくのHP内の「会社沿革」には来島どっくのことは1902年創業、1949年来島船渠株式会社を設立、1966年新社名を株式会社来島どっくに変更の文字が見えるだけで、坪内寿夫氏の名前はどこにも見当たらない。
当時、「再建王」「四国の大将」(柴田錬三郎が坪内寿夫をモデルにした小説「大将」を1970年に発行している)と呼ばれ、晩年は乞われて佐世保重工業の再建を成した人物ということを考えると、この扱いはちょっと寂しい。
後年、来島どっくが経営破綻したことで、それまで「再建王」と持て囃された坪内寿夫氏の評価は晩年、掌を返したように言われ、今では人の口に上ることも殆どないが、もう少し客観的に評価し直されてもいいのではと思う。
人間成功すると経営者であれ都知事であれ、立派な本社社屋を建設したがるが、来島どっくの本社はボロ社屋のままだった。稼いでいるのは現場で、現場の人間には厚くし、現場の稼ぎで食わしてもらっている管理部門が贅沢をすることは許さなかった。
また信賞必罰も徹底しており(多少徹底過ぎたところはあるが)、年功序列が当たり前だった時代に、今では当たり前になっている制度を時代に先駆けて導入していた経営手腕も再評価されるべきと思うし、犯罪者の社会復帰にも熱心に取り組み、傘下企業に出所者を多数受け入れてもいた。
1961年に來島船渠大西工場敷地内に「塀のない刑務所」として知られる松山刑務所大井造船作業場を作ったことでも知られる。そのことも関係あるのだろうが、松山刑務所では就寝前に来島どっくを称える歌が流されていた。当時は両者の関係も知らず、なぜ就寝時に毎回、変な歌が流れるのか不思議に感じていたが。
次回に続く
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