それにしても、なぜ日本人は横並びしたがるのか。それは農耕民族としての名残だろう。狩猟は単独か、協力しても数人だが、農耕は単独では行えない。とりわけ水田栽培は協力し合わないとできない。自分の田だけ水を引くということができない。共同で水路を作り、川の水を堰き止めて上の田から順に水を入れていく。田には水の入り口と出口の2カ所、畦が切り取られ、入ってきた水が田を満たすと下の田に流れていくようになっている。こうして上の田から順に水が供給されていく。自分の所だけ早く水を入れようと思っても無理で、それを無理に行えば共同体から弾き出される。「村八分」である。
余談だが「村八分」は「村十分」ではない。ムラというコミュニティーから100%拒否されるわけではなく、20%は受け入れられる余地が残されている。ムラで生存できる最低限は保証しようというわけで、この辺りに土地から離れては生きられない農耕民族の知恵というか情のようなものを感じる。
農耕は他との協力なくしては成り立たない。協力し合うためには他と歩調を合わせる必要がある。歩調を合わせようとすれば突出することも遅れることもできない。勢い横並びになる。横並びで進もうとするから、その場の雰囲気をなんとなく読み取ったり、互いの心中を推し量るようになる。
詰まるところ、農耕中心の生活では「忖度」は共同体運営に欠かせないものになっている。しかし、生産活動の主力が農耕以外のものに移ってくると「横並び」「忖度」より「突出」「個性の発揮」といったことの方が重視されてくる。
かくして、生産活動の変化により、それまで共同体の円滑な運営に欠かせなかった「横並び」「忖度」は共同体運営の表舞台から消えていき、より小さなグループ内で辛うじて生き残っていく程度になる。
本来は共同体の円滑な運営に欠かせない潤滑油のような存在だったから、閉鎖的な小グループ内で「忖度」が多少幅を利かせていたとしても、社会で問題になったり、社会に影響を与えることはない。
ところが権力と結び付き、権力構造の中で幅を利かせだすと、途端に様相が変わってくる。陰湿な力を権力者とその周辺にたむろする人達に発揮し始めるからやっかいだ。指示伝達経路が表の正規ルートとは別の裏ルートが出来ていき、その2つのルートが複雑に絡み合ってくる。そうなると、これは非正規ルートだから、と無視できなくなる。
森友学園・加計学園問題の裏にはこうした構造があった。自らの保身、出世のために「忖度」したり、周囲が「忖度」するだろうと分かっていて、あるいは「忖度」するように仕向けていたとすれば大問題である。
直接、指示をしたとか、していないという問題ではない。犯罪には直接手を染めなくても犯罪教唆で罪に問われることがある。権力と結び付いた「忖度」にも教唆罪が適用されて然るべきだと思うがどうか。
李下に冠を正さず−−。少なくとも権力の立場にいる者はこれぐらいの気概を持つべきだろう。
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