デル株式会社

 


お節介だから


 一体いつ頃からこうなったのだろう、と自分でも思う。「昔はそんなことなかったのにね。知らない人に話しかけるなんて想像できないわ」。数年前の秋のことである。彼岸花を探して歩いている時、高校時代の同級生から電話がかかってきた。その電話を受けながらキョロキョロと周囲を見回していると赤い彼岸花が数輪咲いていて、ご婦人がその彼岸花を眺めていた。電話を切ったらその彼岸花が咲いている場所に行こうと考えていたので、電話をしながらつい話しかけてしまった。
「こんにちは。彼岸花が咲いていますね。その辺りは他にも咲いていますか」
 このやり取りを電話口の向こうで聞いていた相手が冒頭の言葉のように冷やかしたのだった。
 そう言われればそうだ。昔は道端の知らない人に話しかけることなど自分でも想像できなかった。それがいつ頃から変わったのだろう、どこでも、誰にでも話しかけるようになったのは。我ながら不思議だ。

 今日も今日とて、時々見かけていた人に話しかけ、道でしばし立ち話。その人に話しかけたのは二度目だが、もう5、6年も前から相手のことが気になっていた。それで、ある時思い切って話しかけたのが2年程前。
「おじさん、アルミ缶は集めてないの」
「ありがとう。以前は缶も集めていたが、いま缶はやってないんよ」
「ああ、そう」
 その時はそれで終わった。
 見ず知らずの相手に、いきなりアルミ缶を集めてないか、は失礼だろうと言われそうだが、それには伏線がある。彼が私の住まいの周辺をキャリーカートを引きずりながら歩いている姿をよく見かけていたのだ。
 カートにはビニール袋がいくつか括り付けられていたし、自販機の前ではコイン返却口を探っているのを何度か目にしていた。そして立ち止まっては右手で右目の瞼を上下に開いて前方を確かめるように見ていたから目が不自由なのだろうとも感じていた。
 もしホームレスでアルミ缶を集めているなら、自宅に溜ったアルミ缶をあげようと考えたのだ。というのも自宅のアルミ缶は美野島のホームレス支援センターまで、タオルや文庫本など他の物資とともに時々持って行っていたから、その分を彼に提供してもいいと思ったのだ。

 そして今日が二度目。しばらく姿を見てなかったが、心なしか以前より少し小ぎれいな格好に見えた。そう言えば以前はバイク用のヘルメットをいつも被っていたが、帽子に変わったななどと考えながら擦れ違い5、6歩過ぎたところで足を止め、引き返した。
「寒いですな」
 私と目が合うと彼の方からそう声を掛けてきた。
「寒いね〜。おじさん、住む所はあるの」
「うん、家は借りてる。でないと寒いからな」
「そりゃそうだよね。家があるなら安心だ。ところで週に1日だけど美野島の方で炊き出しをしている所があるよ。ただ、ここからだとちょっと遠いかもな」
「うん、あるな。教会がやってるところだろ。冷泉公園でもやってるし、あちこちにあるんよ。教会もいろいろあるからな。おにぎりとかいろいろ持たしてくれる。でも待たなならんから食べるのに。順番を待つのがな。多いから」
「そう。そういうのがあるということは知っているんだね。お医者さんも時々回っているよ。おじさん、目が悪いんじゃない。そういうお医者さんに一度診てもらえば。市でも相談すればなんとかしてくれると思うけど」
「目、診てもらったことがある。頭からきているから治せんと言われた。目じゃなく頭の神経の方が悪いらしい。目医者は目しか見んからな」

 支援団体や市の支援を知らなければ連れて行ってあげようかと思ったが、それらについても一応知っているようだし、ボランティアの炊き出しを利用したこともあるようだ。なによりホームレスではなく、住む家があると聞き、安心して別れた。

 それにしても我ながらお節介。一体いつ頃からこんなにお節介になったのか。誰に似たのだろうか。
 親父は物静かで、人付き合いはあまり好まない性格。だから町内会の役員はもちろん、町内会の集まりにもほとんど出たことがない。代わりに出かけるのがお袋。なら、私のお節介はお袋似と言ってもいいだろうが、性格は親父に瓜二つとずっと言われてきた。姿形、声もそっくりらしく、訪ねてきた近所の人でも私の姿を見て「あらっ、先生いらっしゃったんですか」と、よく間違えていたほどだ。

 性格は環境によっても変わるし、変えられることは先刻承知している。ただ、それにしてもなにかのきっかけがいる。なにもなくそう簡単に変わるものではないだろう。
 そこで少しばかり思いを巡らしてみた。すると、なんとなく、もしやという朧気な感じみたいなものが浮かんできた。
 一つは年齢。といっても自分の年齢ではなくお袋の年齢。年老いたお袋の世話をするようになって高齢者や弱者のことがより気になり始めたようだ。もちろん、それまでも気にはなっていたが、それを声に出して行動に移すということまでは少なかったように思う。
 もう一つは妻や弟との別れ。妻との別れは後悔の連続と謝罪の日々だが、弟との別れは寂しさ。それらがない混ぜになって他者への関心に向かっているのではないだろうか。
 ただお節介も度が過ぎると嫌われる。程々にしておかなければと思うのだが・・・。

      


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