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グローバルとローカル〜飽和時代の商品欠乏化


都市部でも進む商品の欠乏化
問題は商業施設の過疎化と空洞化


 「グローバル化が進めば進むほどローカルが注目される」という皮肉な現象が起きていると前回書いたが、消費の世界もグローバルとローカルに2極化しつつある。
 大都市に世界中のモノが集中していく一方で、地方からはどんどん商店が消え、いまや生活必需品ですら買えない所が増えつつある。平成の大合併で全国に「市」が激増したが、増えたのは市の面積だけで、地域の生活は以前と何一つ変わらないところがほとんどだった。いや、それどころか逆に悪くなりつつある。商店は一つ、また一つと消えていき、いまでは生協の配達のみが頼りという地域が増えているのだ。

 こうした現状は過疎化が進んでいる地域だけではない。溢れるモノに囲まれた都会のど真ん中に居ながら、買い物に不自由している人達も増えているのだ。10年前なら、そんなバカな、と笑えた話がいまでは現実的過ぎて笑うことさえできない。
 しかし、そんな地域でも、過疎地、都会に関係なく、国内はおろか世界中から欲しいモノを買って生活している人達もいる。彼らに共通しているのはITであり、ITを駆使して商品を買っていることだ。
 ではIT環境さえあれば、どこに住んでいようがモノは買えるのか、モノに不自由はしないのか、といえば必ずしもそうではない。インターネットで商品を注文することはできても、物流がなければモノは手元に届かないからだ。

 そう、問題はデジタルではなく、物流というアナログにかかっている。
その物流が各方面で危機に瀕しているのだ。
 例えば郵便局は半民営化で効率重視に変わり、全国一律サービスは残すという掛け声とは別に、郵政公社になった頃から集配達のサービスは大幅に低下している。
 事実、私が住んでいる福岡市の中心部でも郵便物の収集回数は確実に減っている。ポストから午前中の収集時間が消えているのだ。そのため急ぎの郵便物は集配局まで車で出かけ、投函しなければならない。
 結局、いくらIT化が進んでも、それを支える物流がなくなれば、人は欲しいものを手に入れることさえできないのだ。
 宅配便も生協も同じで、非効率で採算が合わない地域へは配達回数を減らすか、配達そのものをしなくなる。こうして「商品の欠乏化」はますます進んでいく。

 これらは「買い物難民」という言葉で最近言われているが、この言葉にはごまかしがある。難民とはなんらかの迫害(主として戦争や天災)を避け、居住地外へ出た人のことで、買い物ができなくて困っている人達は居住地を出たわけではない。出ていったのは商店や商業施設の方だから、「商店・商業施設の空洞化」あるいは「商店・商業施設の過疎化」「商品欠乏化」と言うのが正しい。住民の方に原因や責任はないにもかかわらず、「買い物難民」という言葉を使うのは国がその対策から逃げているということだ。

 ところで「商品の欠乏化」には2種類ある。
 1つは人口の過疎化が商店・商業施設の過疎化を招き、その結果、商品の欠乏化が生じている現象。
 もう1つは都会で起きている現象で、商店・商業施設の空洞化が原因で「商品の欠乏化」につながっている。
 前者は近くに商店・商業施設がないために商品を買いたくても買えない、「商品の完全な欠乏」だが、後者は人口の過疎化によるものではない。人口は多少減少しつつあるとはいえ地域内には十分な住民が居るにもかかわらず、歩いて行ける距離に商店・商業施設がないため商品購入に困難をきたしているのである。
 これは古い商店街や団地などでよく見られる現象で、その地域内に中型商業施設がオープンした結果、商店は客を新しい商業施設に奪われ衰退していく。そして今度は近くに広大な駐車場施設を備えた大型商業施設がオープンし、従来の中型商業施設(特に広い駐車スペースを持たない施設)は新しくオープンした大型商業施設に客を奪われ、撤退に追い込まれていく。
 すでにその段階では地域内に商店はほとんど残っていないから、エリア内の住民はどこにも買い物に行けなくなっている。それでも車を持っている人は車を運転して距離が離れたところにある商業施設まででも買い物に行くことができるが、車を持たない人は日常品の買い物にも苦渋することになる。

 後者の商品欠乏化が恐ろしいのは高齢化が加わっていることである。高齢で足腰が弱っているため仮に100m先にスーパーがあっても買い物に行けないという人達が増えているのだ。硬度経済成長時代に建設された大型団地になるとスーパーまでの距離は1km、2kmまで伸びる。かつては団地内にスーパーがあったはずだが、商業施設間競争に敗れ団地内からスーパーはおろか商店も消えてしまっているからだ。
こういう現象が全国各地で起きている。
 都会なら物流があるから、その気になれば商品は買えるはずと思うかもしれないが、、高齢者になればなるほどITとは縁遠くなる。
 さらに悪いことに都会のマンション生活は隣近所との付き合いを遮断する。長年同じマンションに住んでいても「隣は何をする人ぞ」という感じの付き合いが多いのだ。これはマンションという構造が持つ欠陥である。ドアが閉まっていれば中に人が居るのか居ないのかさえ分からない。さらに近年うるさくなっているプライバシー問題が住民同士の交流さえ妨げている。孤独死が都市部に多いのはこうしたことにもよる。
                                                  (2)に続く


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