ところで、人は何歳になると不惑の境地に達するのだろうか。
「三十にして立つ、四十にして惑わず」と言ったのは孔子だが、いまの40歳は不惑どころか迷いの真っ只中にいるように見える。
それは孔子が生きた時代といまでは平均寿命が違うから当たり前。大体8掛け人生として、当時の40歳を今の年齢に直せば50歳ぐらいだ、という意見もあるだろう。
だが、孔子は続けて次のように言っている。
「五十にして天命を知る、六十にして耳順がう、七十にして心の欲する所に従って、矩(のり)を踰(こ)えず」
この言葉から察すると、孔子の時代は70歳までは優に生きていたと思われる。となれば現代の平均寿命80余歳とそう大差はない。いまに直せば不惑の歳は40代半ばというところだろう。これなら大体感覚的にも納得できる。
しかし、いまの40代半ばに分別があるかと言えば、犯罪を見る限りどうもそうとは思えない。例えば覚醒剤使用での逮捕者に50代以上が増えているし、65歳以上の一般刑法犯は平成10年以降急増している(警視庁の統計による)。中でも凶悪犯罪は10数年前に比較して20倍に激増している。
覚醒剤を使用するのは青少年という「常識」はもはや通用しなくなった。「常識」が通用しないという意味では性犯罪も同じ。本来、性犯罪は若者が起こす犯罪だった。それが最近は中高年の性犯罪が増えている。なぜ、日本人はかくも低年齢化してきたのか。
4.他力頼みの未成熟型成人
理解に苦しむのは「相手は誰でもよかった」「死刑になりたくて人を殺した」と言う無差別殺人、動機なき殺人が近年増えていることだ。これは明らかに従来型の犯罪とは質的に異なる新タイプの犯罪が出現してきてきたということだ。
重大犯罪が起きる度にメディアではその道のプロと称する人達を引っ張りだし、動機やプロファイリングから犯人像に迫ろうとする。だが、新タイプの犯罪に従来型の思考、分析が通用するはずがないのは当然で、予測はことごとく外れている。
それにしてもなぜ、突然変異的に犯罪が変化したのか。
銃犯罪が多いアメリカでは無差別殺人も多いが、昨今の日本の殺人事件と決定的に違うのは「死刑になりたくて、誰でもいいから人を殺したかった」という身勝手殺人は耳にしないことだ。
最近の凶悪犯罪で特徴的に見られるのは凶行の対象が家族(かつての家族関係も含め)や交際相手といった身近な人間を対象にしていることで、これは強者には立ち向かっていけない弱者の犯行といえる。内向きの犯行と言ってもいいかもしれない。
対して無差別殺人は見ず知らずの人間を対象にしているため、一見、外向きの凶行のように見えるが、実はこれも自らの弱さを隠す、内向きの犯行である。
その典型が、自ら死を選べずに、他力を頼んで自らを死に至らしめてもらいたいという身勝手さ。こういう犯罪を犯す輩は自分で自分の進路を決められないタイプの人間であり、大人になりきれない未成熟人間といえる。
問題はなぜこのようなタイプが増えてきたのかということだが、モノ余り時代、文明の退廃と全く無関係というわけではないだろう。
5.生命が物化する
物や金銭的な豊かさが幸福感をもたらさなくなると、文明はそれ以上発達することを止め、退廃へと向かうのはすでに歴史が証明するところだ。
そこでは人々は退屈し、原始的な強さに憧れを持つ。生身の肉体への憧れである。ただし、それは精神を持たない単なる肉体、動物と同じ肉体としか見られない。
ローマはそうして滅んだ。異国との戦いというより退廃した文明により内部から崩壊したのである。闘牛、闘鶏などに飽きたらず、人間同士を生命を賭けて戦わせる見せ物にし、文字通りそこに金銭を賭けて楽しんだのだ。
そこには生命も肉の塊、物としてしか捉えられず、生命も一つの物でしかありえない。
危惧されるのは、同じ状況がいま生まれていることだ。ヒューマンハザードとでも言える現象が起こり、次から次へと伝播していく。善は伝播しにくいが、悪は瞬く間に伝播していく。
この先に待つものは何か。そして我々はそれを止められるだろうか。
太陽の磁場が完全に逆転し、地球の磁場も逆転した時に答えが見つかるかもしれない。それらが人類にどのような影響を与えてきたのか・・・。
#崩壊するニッポン
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