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林原グループの経営破綻が教えるもの(2)


2.粉飾決算

 次に語られるのが同グループの粉飾決算である。
最大時には売上金の架空計上が288億円にも上っていたという。これだけでも驚くが、粉飾期間の長さにも驚く。粉飾を始めたのは1984年からで20数年間にも及んでいた。
 今回、同グループが破綻した直接のきっかけは金融機関からの追加融資が得られなかったことだ。より正確に言えば、複数の金融機関に追加融資を申し込んだところ、金融機関同士が情報交換のため互いに把握している数字を照合した結果、各行の融資残高がそれぞれに違っていたことが判明し、粉飾決算が発覚。これでは追加融資に応じられない、となったのだ。

 各行が把握していた融資残高がそれぞれ違っていたというのは、メーン行の中国銀行に出す書類には中国銀行の融資残高を正確に記し、準メーン行の住友信託銀行等の融資残高を少なめに記し、住友信託銀行に出す書類には同行の数字を正確に記入し、中国銀行の融資残高を少なめにしていたのだ。
 こうした数字を見せられていた各行は総融資残高を実際より低く感じており、そのことがさらなる融資を生んでいたわけだ。
 表に出す数字と実際の数字を変えている二重帳簿と違い、各行に出す数字をそれぞれ操作していたわけで、やり方が巧妙というか、それを長年見抜けなかった金融機関が間抜けというか、その判断は読者に委ねることにする。

 もちろん当初からそんな手の込んだやり方をしていたわけではないだろうが、こうした粉飾は一度やりだすとなかなか元に戻せないものだ。せいぜい額を少なくしていくぐらいだろう。結果、20数年に渡る粉飾決算となったと思われる。

 注目したいのは粉飾を始めた1984年という年だ。
 同グループの歴史を見ると81年に林原生物化学研究所藤崎研究所を竣工し、83年に創立100周年事業、吉備高原テクノポリスに新しい工場・研究所が完成(87年)。85年には藤崎研究所に隣接して建設中の藤崎細胞センターが完成するなど、この頃同グループの事業は社会から注目を浴び、事業、設備投資を拡大していく様子が見て取れる。
 好事、魔多しと言われるように、企業は拡大期にこそ陥穽が潜んでいる。
ついでに記せば、85年はプラザ合意がなされた年で、これ以降日本は急激な円高に見舞われ、企業の海外移転が相次ぎ、国内の産業空洞化の危機が叫ばれるようになる。
 因みに中小企業が国内で生き残るための方策を本格的に探る活動に、私が軸足を移したのも、この時がきっかけだった。
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