犯罪の背景にイラつきを生むコンビニ社会の存在(2)
〜イラつきの背景にコンビニ社会


 理解できないと言えば、犯行後供述を翻し否認する例が増えていることもある。上記3番目のショベルカーが歩道に突っ込んだ件でも、防犯カメラに映像が残っているにもかかわらず、運転手はその映像と矛盾することを供述している。故意ではなく「ブレーキとアクセルの踏み間違い」ミスだ、と。
 最近の犯罪では逮捕直後の供述を翻し、一転否認、あるいは裁判で全面否認に転ずる例が増えている。もちろん本当に犯行に至ってない場合は別だが、現行犯逮捕に近い状態で逮捕されていても犯行を認めない、否認する例は自己弁護としか思えない。

 それにしてもなぜ犯行を認めないのか。背景の一つに相次ぐ冤罪事件や誤認逮捕などの報道で知り得た情報があるのかもと疑いたくもなるが、一つには犯した事件を1人称で捉えられていないのではないだろうか。
 なぜ1人称で捉えられないのか。つまり自分ではない誰かが起こした事件、あるいはどこか現実感に欠ける、「リアル世界」で起きた事件という捉え方をしているように思える。
 1人称で把握していないから事件後も悪びれる様子がない。裁判でも「被害者に謝罪の言葉がなかった」と報じられるのは、事件を1人称ではなく3人称、少年犯罪の場合は「少年A」という形で捉えられ、また自らもそう捉えているから、どこか現実感が乏しくなる。今風にいうなら現実世界の出来事でなく、「リアル世界」で起きたことという感覚だ。

 これは不気味な感覚である。1人称の現実感に乏しければ犯行、事件に真摯に向き合うことができない。真摯に向き合えなければ反省という行為には至らない。故に「被害者への反省の言葉」もない。そして、こうした感覚は伝播する可能性が高い。いや、すでに伝播し、似たような犯行が繰り返されていることが不気味だ。

イラつきの背景にコンビニ社会

 2番目のトマト農家の男性が白菜を盗んで売り捌いた事件はある意味、古典的な犯行と言える。カネに目が眩んでという昔からよくあった犯行だが、ここにも現代ならではの背景が見て取れる。
 ひと言で言えば非常に短絡的。多種栽培している農家ならまだしも、トマト栽培農家で白菜を作ってないところが、白菜が高値のこの時期に卸市場へ白菜を大量に持ち込めばどう思われるかぐらいは分かりそうなものだ。しかし、そこまでの思慮はない。目先のカネに動かされ、隣の畑から盗んでしまった。それも一度ならず。
 この種の窃盗(使い込みを含む)は初回から大量に盗むということは少なく、初回の犯行が発見されずに事なきを得たから次に及び、それも「成功」すると、さらに回を重ね、やがて犯罪という感覚も麻痺してくる。
 トマト農家の男性も周辺で白菜を次々に盗んでいたようで、直接の逮捕容疑は白菜160玉の窃盗だが、1月15日〜2月4日トマト農家男性の居住地および隣接市で6件579玉の被害届が出ている。

 「漠然としたイラつき」や短絡的な行動はなぜ起こるのか。その背景を考えると、いずれも「都会型」だと気付く。都会には人が多く、欲しいものは何でも、いつでも手に入る便利な生活がある。それを端的に実現しているのがコンビニエンスストアだ。欲しいものやコトがあればコンビニ行けば手っ取り早く手に入る。それも時間に関係なく。
 そんな便利な生活(自分の欲求をすぐ満たしてくれる生活)に慣れた「都会人」は我慢したり、時間をかけたりすることができなくなっている。欲しいと思えば、それが他人のものであれ、コトであれ、感情であれ、即手に入れようとする。

 もう一方で、都会は人で溢れている。多くの人が集っているが、そこには有機的な結合はなく、それぞれがバラバラ。一見、有機的な結合のように見える職場も、その場を離れると各人はバラバラの存在になる。職住が分離している(両者の間に関係性がない)ためだ。
 かつて「東京砂漠」という歌が流行ったことがあるが、まさに言い得て妙。人は多いが有機的な結合がなく、渇(乾)き切った人間関係の中で人々はストレスを抱え、「漠然としたイラつき」を感じながら生きている。ストレスの元も、イラつきの原因も明確に分からず、そのことがさらにイラつき、ストレスを増していく。
                (3)に続く


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