公文書の廃棄は独裁化の始まり
なぜ公文書の改竄・破棄が独裁化の第一歩になるのか。それは歴史の検証と密接に関係しているからである。歴史の検証に必要なものは過去の記録である。10年後には記録はすべてコンピューターのデータで残され、活字化はされていないだろう。
印字化されずコンピューター上にデータとして残された文書は書き換え、改竄が簡単な上に、改竄されたかどうかが即座に判断できない。その上、データの消去もボタン1つで瞬時にできる。
一方、紙に印字された文書なら訂正箇所・内容が一目瞭然だから、改竄はし難い。
我々が過去の歴史を検証できるのは印字されたものがあるからである。それが石や木片、土片であれ、刻まれた文字等が残されているから歴史を遡ることができる。
ところが文字が残されていない文明は後から検証することができない。仮にその民族がどんなに高度な文明を持っていても、後の時代の人達は「高度な文明を持っていたようだが、彼らは文字を発明してなかったから、どういう手段でコミュニケーションを取っていたのだろうか」と疑問に感じるだけで、その文明に近づき、文明の後をなぞることもできない。
その結果、過去は現在より劣っている、文明は後になる程発展していくと、進化論的に考えてしまう。本当は過去に現在の我々よりもっと進んだ文明が存在していても。
コンピューター上などのバーチャル文字は印字文字と違い、時代を超えて残らない。いわば文明の崩壊とともに消え去る。残るのは前近代的と思われる石や土・板片などに記された文字や絵、さらに装飾品や建造物といった形あるものである。
もし、インカやマヤその他の民族がエジプトのように岩や土片に文字を残していれば、後世の人間は彼らの文明の遺産や歴史を知ることができたに違いない。だが、彼らは刻んだ文字よりずっと高度な方法(バーチャル文字)で意思疎通を図っていたから、紙や土、岩などに書き記す方法は取らなかったのかもしれない。
いずれにしろ、過去の出来事は記録されたものの存在があってはじめて分かるし、検証できる。もちろん歴史の検証には公式文書だけではなく非公式な文書などにもよって多角的に行う必要があるが、それでも基本になるのは公式文書である。
ところが、その公文書が1年程度で破棄された、あるいは最初から記録されていないとしたらどうか。国民は政府の発表を信じることが出来なくなるだろう。発表された「事実」が何を根拠にしているのかが分からないからだ。
例えば我々は少し前まで中国が発表する国内人口やGDP、成長率といった数字を鵜呑みにできないと言ってきた。それは基本になる数字、人口調査を行った方法に信頼性を置いていなかったからだ。
要は数字の出し方に疑問を感じていたわけで、それは記録の取り方の公正さに疑問を感じていたからだ。さらに言うなら意図的に都合よく改竄した記録を発表しているのではないかと疑ってさえもいた。
このように基本となる数字や公式文書に信頼が置けなければ、その国の政府そのものへの信頼もなくなるのは当然だし、政府は国民を操作しようとしていると考えるだろう。
戦前戦中を生きた人達はそのことを身をもって知っているはずである。大本営発表の連戦連勝のニュースは実は国民を騙す嘘だったということを戦争が終わって初めて国民は知ったのだ。
嘘の情報でも繰り返し流されていると、それを真実と信じてしまう。その情報がフェイクかどうかを判断するには元になったデータ、数字、写真といったものがオープンにされる必要がある。
それを隠したり、一部訂正したり、破棄するのは、自分達に不都合な事実を隠したい、国民に知らせたくないからだ。どこぞの首相が好んで使う「情報操作」をしようと目論んでいるわけである。
どんなこともいきなりはっきりと現れるわけではない。最初は小さな出来事として、ちょっとした異変として見えるだけである。それを変化の兆候と見、早い段階で気づき、止めれば大事に至らない。「ボーと生きていれば」気づいた時は「ゆでガエル」になってしまう。
これは他国のことでも対岸の火事でもない。トランプ大統領の出現は他山の石とすべき出来事だが、それに倣えという雰囲気が出ていることが怖い。
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