「これで業界に革命を起こせる」
いつものように実験を繰り返していたある日、突然社員が叫んだ。
「社長、浮きました。浮いています」
ワークはわずかに浮上していた。
浮上を確認した篠原は大きく頷いた。
「よし、これで半導体業界に革命を起こせる」
半導体の大見忠弘でさえ「あれはダメだ」と言った非接触搬送装置を、九州の名も知られてない中小企業が開発した瞬間である。
「人間一人ぐらいは浮きますよ」
どれぐらいの重さのものまでなら浮上させられるかとの問いに、笑いながら平川はこう答えた。
搬送速度は分速50m。従来のローラー搬送の速度が分速20mだから、一気に2.5倍にスピードアップしたことになる。うれしい副産物だった。
屈辱をバネに脱下請けを決意
メーカーへの転身を図る
第一施設工業はもともとリフター(昇降機)のメーカーである。といっても会社設立から20年あまりはエレベーターの据え付け保守工事の下請け仕事に甘んじていた。それがいまでは世界のクリーンルーム内で稼働するリフターのシェア90%を誇る企業にまで成長したが、その陰にはメーカーへの脱皮を強く決意させたある出来事があった。
「徹夜して一生懸命作成した見積書を持っていくと、中身をよく見もせずに、いきなり赤鉛筆でバッと線を引かれたんです。そして、ササッと金額を修正して返すわけですよ。いくらなんでもそれはないだろう、と思いましたね。最初からその金額しかダメならそう言ってくれればいいんです。この時ほど悔しかったことはない。それで下請けではダメだ。絶対にメーカーになろうと決意したんです」
と篠原は声を荒げて語る。
この時の経験がよほど屈辱的だったのだろう。だが、屈辱は人を打ちのめすばかりではなく、時に鋼のように鍛えもする。篠原は屈辱をバネにメーカーへの転身を強く心に誓ったのだった。
しかし、メーカーへの脱皮を目指したからといってすぐにメーカーになれるほど甘くはない。多くの中小企業は皆一度はメーカーを志向したことがある。だが、ある者は途中で挫折し、またある者は目先の仕事に追われ、結局、従来通りの下請け仕事に甘んじているところがほとんどだ。
しかし、篠原は違った。なにがなんでもメーカーになるんだという人一倍強い思いと、その時に備え、日々知識と技術の研鑽を怠らなかったのである。そんな同社にある時、天使がほんの少し微笑みかけた。
分速25mを120mに5倍速
日本最速のリフトを開発
「製造ラインのリフトのスピードがもっと速ければ生産量が倍増するのだが」
九州松下電器梶i現パナソニックコミュニケーションズ梶jの製造現場で担当者が漏らしたひと言がヒントになった。
「もし、いまより速いリフターをうちが開発すれば売れるに違いない。よし、同じ作るなら日本最速のリフターを作ってやろう」
そう考えた篠原は社員を叱咤激励し、社を上げて日本最速のリフトづくりに挑戦したのだった。
日本最速のリフターといっても、ただ速度が速いだけでは商品価値はない。決められた位置できちっと止まらなければならない。つまり位置決め精度も問題になる。速度と精度。この2つをクリアして初めて商品価値があるのである。
当時、リフトの標準速度は毎分25m。それを毎分120mの超高速リフトを開発したのだ。商品名を「ハイリフター」と名付けた。88年7月、九州松下電器の各工場に納入を開始。9月にはNEC御殿場工場にも納入した。
その後さらに改良を続け、現在では毎分260mを達成。文字通り日本最速のリフトとして知られている。その後、九州松下電器だけで約10億円の受注仕事になり、見事にメーカーへと脱皮した。
(文中敬称略)
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