長引く不況で中小企業のマインドも萎縮しているように見える。
本来、ベンチャーや中小企業は挑戦するものだし、挑戦できたのだが、最近そんな話はとんと聞かない。
激動、変化の時代にどちらかといえば静観を決め込むのは大組織で、ベンチャーなど小組織はむしろ動き回ることで勝機を掴んでいるのは過去の歴史が示す通りだ。
例えば織田信長−−。
信長はいまでこそ戦上手な戦国武将、革命児、新しもの好きと言われているが、当時、信長が治めていた尾張の国は小国。尾張の周辺には美濃の斎藤道三、駿河・遠江・三河の太守である今川義元、甲斐の武田信玄、越後の上杉謙信などがいた。
いずれも尾張より大国である。
にもかかわらず、いち早く京に上り、天下に武を布(し)いたのは、小国の武将、いまでいえばベンチャー企業の社長か小企業の社長だった。
なぜ、小大名の信長が天下に覇を唱えることができたのか。
結論を先にいうと次のようになる。
1.チャレンジした
2.同じ戦い方をしなかった
3.組織改革をした
4.進取の気性に富んでいた
治世(領国内の経営)の良し悪しは別にして、天下布武を目的意識的に考えた武将は信長一人、あるいは信長に勝るものはいなかっただろう。武田信玄は甲斐1国の治世で、天下布武への野心はなかったか少なかった。上杉謙信にしてもしかりだ。あるいは強敵がすぐ側にいたため、まずライバルを倒すのが先と感じていたのかもしれないが、いずれにしろ両者にあまり「天下」という支配欲はなかったように見受けられる。
対する信長は結果としてではなく、比較的早い時期から「天下布武」という目的意識を持ち行動していた。
この違いは大きい。
逆の見方をすれば、激動の時代に大国はジタバタしなくてもまだなんとかなるが、小国は自ら動き回らなければ状況を変えられないということでもある。
これが信長のチャレンジであり、チャレンジ精神となって表れている。
二度と使わなかった鉄砲の3段撃ち
信長の戦いで有名なのは今川勢と戦った桶狭間の戦い(田楽狭間の戦い)と長篠の戦いである。
桶狭間は今川勢を奇襲戦で破り、長篠では武田軍の騎馬隊に鉄砲の3段撃ちで対抗し勝ったことになっている。というのも、実は「鉄砲の3段撃ち」は真偽が定かではない。通説だと信長軍は鉄砲隊を3横列に構え、順次鉄砲を撃ったことになっている。これが世にいう「鉄砲の3段撃ち」である。
ところが、同時代の史料に「鉄砲の3段撃ち」という記述はどこにもない。この言葉が出てくるのはずっと後世、明治時代に編纂された陸軍参謀本部編「日本戦史 長篠役」である。武田軍との合戦の様子が描かれている長篠合戦図屏風にも3段構えの鉄砲隊は描かれていない。鉄砲隊も馬防柵も描かれており、馬防柵は何段にもなっているが、鉄砲隊は1段だ。
ともあれ、ここでは通説をそのまま取り入れることにする。ところが、信長が鉄砲の3段撃ちを利用したのはこの時だけ。以後の戦いではこの戦法を一切使ってないのだ。
つまり信長は一度として同じ戦い方をしてないのである。
これこそが「小」の戦いである。大組織は常に必勝のパターンで臨む。いつも同じやり方を採用するのだ。
対して小組織は常に相手の意表を突きながら戦う必要がある。いわゆるゲリラ戦だ。ゲリラ戦は相手に手の内を読まれたらおしまいである。戦い方を読まれたら数に勝る大組織が勝つのは当たり前だ。
信長はそのことをよく理解していた。だから同じ戦法を二度と使わなかったし、組織が小さい頃と組織が拡大していった頃とでも戦い方を変えている。
人間一度手に入れたものはなかなか手放しにくい。それが成功のパターンとなればなおさらだ。だから同じものでいつまでも勝負しようとする。
だが、信長は戦の仕方だけでなく、築いた城でさえも簡単に手放し、新しい場所に築城している。
このチャレンジ精神は大いに見習うべきだろう。
一つの商品、一つの技術をひたすら守り続けるのも一つの方法だが、次から次に新しものを作り続けるのも方法である。
どちらが善し悪しという問題ではないが、少なくとも起業当時のチャレンジ精神を持ち続け、新しいもの、分野、技術に挑戦していく姿勢は大事だろう。 (続く)
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