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社員を後継者にした中小企業の創業者(3)
   〜秀吉型で行くか家康型か〜


後継者に必要な条件は

 さて、話を本題の後継者のことに戻そう。
私が中野さんから「社長を後退する」と聞かされたのは、いまから3、4年前だと記憶している。
「歳も社歴も最も若い彼が次の社長です」
 そう言う中野さんの言葉に「ああ、将来の社長候補生か」ぐらいに聞いていたが、来年の話と聞いてちょっと驚いた。
わずか社員5人の会社である。いかに実力査定人事だとしても、社内のチームワークが乱れはしないか。そんな懸念が過ったが、挙手した社員を社長にしたと聞いた時にはさらに驚いた。
「朝礼で、次は君らの中から社長になってもらおうと思う。誰かやるというものはいないか、と手を挙げさせたんです。こんなすごいチャンスはないでしょう。なのに誰も手を挙げないんです。すると、それまで黙ってじっと先輩達の動きを見ていた彼が、誰も手を挙げないのを確かめて『私がやります!』と手を挙げたんです。入社歴も歳も一番若いんですからね。面白いでしょう。それで『よし、分かった。お前、やれ』と決めました」

 大企業でもサプライズ人事は時折りあるが、中小企業では珍しい。特に今回のような例は。
 次期トップに要求される条件はその時代によって、調整能力だったり、強いリーダーシップだったりと異なるが、小組織の場合は調整能力や「和」以上に、起業家的なエネルギーがあるかないかということの方が重要だろう。他のものは後から身に付けていけばいい、あるいは身に付けていけるが、起業家精神は訓練すれば身に付くというものではない。そう考えると、一見とんでもない決め方のように見える今回の後継者選びの方法も案外理にかなっているといえる。
 とはいえ、経験、経歴ともに最も若い社員がいきなりトップに立てば目に見えないところで波風がたたないとも限らない。いや、その可能性が大きいだろう。だが、そうならないようにするのもオーナーの責任である。

 大胆に考え、慎重に行動する−−。
中野さんのやり方を見ていると、そんな感じを受ける。1、2年前から周囲に次期社長は誰それと紹介していき、内外ともにコンセンサスを得たところでトップを交代。しかも、その間、トップとしての自覚と責任を身に付けるよう訓練を積ませている。士官学校で実地訓練をしているのと同じである。あるいは仮免取得後の路上教習と言い替えてもいいだろう。ここで実戦さながらの訓練をしっかりしておかないと、実際に独り立ちして運転しだした時に脱輪その他の事故を起こしてしまう。脱輪程度ならまだいいが、運転を誤って車そのものが大破するような事故につながれば組織は潰れかねない。
 昨年末、同社にお邪魔した時、「この部屋でお会いするのは今日が最後です」と中野さんから告げられた。社長室も明け渡し、名実ともにトップを交代したわけで、この時、中野さんは54歳である。

バトンタッチは秀吉型か家康型か

 以上、社員へのバトンタッチの例を2つ紹介した。
 私は常々バトンタッチは早い方がいいと言っている。
では、何歳ならいいのか。
後継者が40代の時がベターだと思っている。30代では少し早いかもしれないし、50代では遅すぎる。
40代ならまだ冒険できるが、50代になると守りに入るからだ。無難なことしかやらなくなる。それでは組織の成長はなくなる。
 仮に後継者が失敗したとしても、40代ならまだ本人に再チャレンジのチャンスがある。だが、50代なら再チャレンジのチャンスは非常に少ない。となると、後継者本人の人生そのものを潰すことにもなりかねない。それは双方にとって不幸だ。

 一方、バトンタッチする側の妥当な年齢はといえば、望ましいのは60代。ただ最近は皆元気なので60代は早いと感じている人が多いようだが、なにもそれで人生から引退するわけではない。まだまだ事業欲が旺盛なら、そのエネルギーで新しい事業を興せばいいし、他にもすることは一杯あるだろう。
 ところが、70代だと新しいものへのチャレンジ意欲は減退しているだろう。いつまでも古いものにしがみついている人は時代の変化への対応もできなくなっているし、ひたすら「俺の時代は」という懐古的な過去の成功体験にしがみつくことしかできなくなる。結果、組織が新しい時代に対応できなくなり衰退した例は最近の大手製造業を例に挙げるまでもなく数多く見かけているはず。

 歴史的に見れば、秀吉と家康のバトンタッチが対照的であり非常に示唆に富んでいる。
 秀吉は自らが権力に執着し、直系にこだわったため、結局豊臣政権は1代で終わってしまった。
 対して家康は征夷大将軍になって2年で息子の秀忠に征夷大将軍の職を譲っている(実際には自分の一存で決められることではなく、形式上は朝廷に任命してもらうわけだが)。今風に言えば息子を代表取締役社長に就任させ、自らは代表取締役会長として駿府で目を光らせていたわけだ。目を光らせていた相手は社長ではなく、諸大名に対してである。ここが重要で、社長職を譲っても社員にいつまでもオーナー然と振る舞っていたのでは実際の権限委譲は進まない。それより自分は自分で何か新しいことをすればいいのだ。

 この点では期せずして今回紹介した公協産業の国広氏も中野建築システムの中野氏も別会社の社長として、あるいは別会社を作り、そちらの事業に注力している。そうすることで家康が駿府から江戸を支えたように、横から会社を支えているのだ。
 努々(ゆめゆめ)、秀吉型のバトンタッチをして、「難波のことも夢のまた夢」とならないように望みたい。


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