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元オーケー食品創業者が失敗の原因を語る(2)
私はなぜ、店頭登録を急いだのか。


関東・関西は航空便で
運賃だけで月1,000万円

 −−せっかく滅菌ラインを設計・稼働させたのはいいが、肝心の制御装置が入ってなかったという話でしたね。
 片山 なんともお粗末な話で、アホらしくて他人には言えませんが、設計した人間は逃げたんです。
 前の機械をスクラップしてなかったからよかったんですが、それをもう一度引っ張り出して組み立てましてね。真夏だったんですが外にテントを張って、もう大変でしたよ。
 ただ、機械の設計そのものは間違ってなく、非常に精密なことができる装置になっていたので、他の業者に制御部分を作ってもらい、結果的には動くようになったんです。
 修理するのに3カ月かかりました。その間、工場関係者は工場の中で寝泊まりするなど、生産体制を維持するのに大変でした。
作った製品は欠品させるわけにはいかないから、関東、関西は全部飛行機で運びました。航空運賃だけで月1,000万円単位払いましたよ。それを3カ月続け、やっと順調に稼働するようになった。そういう状態でもなんとか黒字は維持しましたから、それだけ利益は出ていたわけですね。
 ただ、単価もずっと無理をしてきたので収益が落ちてき、このままでは来期は赤字すれすれになると予想したので値上げしたんです。
 そこでちょっと蹈鞴(たたら)を踏んだわけだから、体制が立て直るのを待って店頭登録すれば何も起こらなかったんだが、食用キノコの栽培という横に持っていったわけです。


持ち株比率を上げるため
銀行借り入れ等で増資

 もう一つは私個人の問題なのですが、この問題がなければ絶対店頭登録はしてなかったと思います。
 私自身は株をあまり持ってなかったので、新株引受権付社債(ワラント債)を大量に発行したんですが、行使価格8億数千万円は借金でまかなったんです。だから私個人の借金が8億数千万円できたんですね。それをジャフコと西銀が半々で出したんです。当時はまだ金利が高かったから、私の全収入をオーバーするわけです。これはもうどうもこうもされんなという個人の問題が頭をもたげたことが、私を誤った方向へ行かせた。店頭へ登録する時期ではないというのを、後ろから押したというかね。
 もし、現在のストックオプション制度がその当時あったら、私はどんなに言われようと2年間、店頭登録を延ばしていた。そしてキノコには手を出していなかった。
 −−なるほど、店頭登録をして得たキャピタルゲインで借入金を払わなければ、借金まみれになる、と。
 多くのベンチャー経営者が資本政策を誤り、上場後経営権を剥奪される憂き目に合っていますが、株はどの程度お持ちだったのですか。
 片山 増資後、一族で37%ぐらいの株を持っていた。それだけの株にするために新株引受権付社債を発行したわけで、それが私の命取りになったんです。


銀行、役員、誰も止めず
一気にキノコ栽培へ

 −−ところで冒頭、キノコ栽培は偶然の産物だとおっしゃいましたね。
 片山 店頭公開前の頃で、研究所の連中がおからを培地にしてキノコをテスト栽培したところうまく行ったわけですね。最初は本社の横の小屋のような所で作り始めたんですが、いざやってみると非常にいいキノコができた。
 普通の状態なら徐々にスケールアップしていくというのが当然なんですが、店頭登録の話が進んでいたために、とんでもない金が動くという状態になり、結局、足が地に着かなかったんですね。
 危険ではないかということを言う役員も1人もいなかったし、銀行も何も言わなかった。本来、銀行は言うべきではないかと思いますよ。段階を追ってやれ。そうでないとお金を貸せませんよ、と。
 言うなれば、当時いくらでもお金を借りさせようとする時代だったのでしょうかね。それとタイミングが合いすぎたということでしょうね。
 −−JAFCOも何も言わなかったですか。
 片山 JAFCOは店頭登録後にしてくれ。登録前にするなら上場が難しくなる、と。だから水面下でやった、というか、建設中で、登録が終わってから4つの工場を稼働させたんです。いま考えたら、何でそんなことをしたのかと思います。
 −−当時、栽培されたのはどのようなキノコですか。
 片山 エノキです。エノキに特化したことがまた命取りになったわけです。一番弱いキノコなんです、いま分かっていることは。
 −−エノキを選んだ理由は何ですか。
 片山 平成元年当時はまだ価格がよかったんです。その後どんどん競争になり価格は下落しましたけどね。消費量は当時エノキが一番大きく、その後ブナ、シメジと続くんですが、当時はまだマーケットにいまほどには認知されていなかったんです。
 一番最後に造った工場はブナ、シメジを目的にした設計をしたんですが、途中からエノキに変えちゃったんです。それが最終的には命取りになった。


各行が競って融資合戦
売上高の3倍の金が動く

 片山 キノコに約200億円突っ込んでいるんです。その金は皆銀行が貸したわけですからね。当時、売上高が70億円あるかどうかですから、3倍近い金額を銀行が貸したわけで、気違いじみていますよ。
 銀行は決算書を見ているわけだから、新規事業にいくら投資するのか、そのためには第1段階ではここまで、それがうまくいって次のステップをと指導するのが普通でしょう。
 貸したのは西銀だけではありませんからね。佐賀銀行、長期信用銀行、東洋信託銀行など何行もが競って出しているわけです。東洋信託などはそれまで取り引きもなかったのに数十億円を1回で出すわけですから。店頭登録という実績に対して各行が競って貸すわけです。
 それまでは私も経理も金に苦労していたのが、店頭登録したとたん銀行から数百億円というお金が動く。そんなことがあるのかという感じで、もう足が地に着かなくなって、なにがなにやら訳が分からんようになっていたわけです。
 −−本来なら冷静に決算書を判断すべき金融機関もバブル期で狂っていたわけですね。
 片山 売上高70億円前後の会社に7億とか10億円なら分かりますが、何百億円と貸すわけです。1行当たりは30〜40億円かも分かりませんが、初めての取り引きでポンと貸すわけですから。おかしいですよ。そして失敗したら、私が独裁者ですべてを牛耳っていたからだというような結論を出して片付ける。
 −−当時、メーンバンクは西銀でしたね。
 片山 経理担当として西銀から来てもらっていたんですが、平成4年になるといよいよキノコ事業が行き詰まりを見せ、西銀出身の経理部長の薦めで西銀から川アさんに副社長としてきてもらったわけです。川アさんは経理部長の名指しの薦めで、私は全然面識もなかったんです。
 その1年後の平成5年に、私は社長を引退し会長に退いたんです。それからしばらくして、キノコ事業を閉鎖しろ、と当時、常務になっていた男(西銀出身の前経理担当部長)に何度も進言したんですが、言うことを聞かなかったんです。
(聞き手・ジャーナリスト 栗野 良)


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