Google

 


福岡の将来を描いた二つの都市開発構想

 昭和18年の「大福岡構想図」と
 昭和24年の「大福岡構想」

 戦中、戦後にそれぞれ福岡市の都市開発構想が生まれている。一つは昭和18年3月に博多商工会議所が作製した「20年後の大福岡構想図」である。構想図作製責任者は博多商工会議所貿易部長・小田喜七郎。構想図作製参与に福岡市助役・坂本一平、同港湾課長・松原正、同商工課長・坂村明等の名前が記されている。だが、この構想図の存在は意外に知られていない。構想の大きさや、構想図作製に関与した人々の顔触れを見れば、もう少し広く知られていてもいい気がするが不思議である。かといって別段、秘密にされていたわけでもない。この構想図は今でも福岡商工会議所の1室に額に入れて飾ってあるし、福岡市の年誌の中にもこの構想図は収録されているからである。
 最近、一度、商工会議所がこの構想図の復刻版を全議員に配布しようとしたことがある。ところが復刻版が出来上がり、いざ配布という段になって枚数が足りないことに気付き、もらった人もらわなかった人が出ると公平を欠くという配慮から、せっかく復刻した絵図をそのまま倉庫にしまったという話を耳にしたことがある。となると、いまでも商工会議所の倉庫の中にはまだ何百枚か眠っていることになる。
 いずれにしろ、当時、福岡市の商工界、官界の間で福岡市の大改造計画がある程度のコンセンサスを得ていたのは間違いない。「博多港の機能強化を中心とした福岡市の改造願望は大正時代からあった」と指摘する学会人もいる。だが、その後、構想図に描かれている内容が真剣に検討されたり、考慮された風はない。しかし、もし、ここに描かれている構想が実現していたら、その後の福岡市はもっと違った姿になっていたかもしれない。
 近年、福岡市は開発が急で、槌音が絶ることがない。中心部の交通渋滞はひどく、それを解消するために中央分離帯のグリーンベルトを削り道路の拡幅が行われているし、やれガス管工事だ、水道管工事だと、道路は年中掘り返されている。別にそのこと自体を批判するつもりはないが、都市開発に長期的な視点が欠如しているとのそしりは免れないだろう。「21世紀」とか「アジアに開かれた国際都市」という言葉を発するだけでなく、本当に長期的な視野に立った都市づくりとは何かを考える必要がある。そのためにも先人が残した遺産を検討してみる価値はあるだろう。そこで以下、この構想の内容を紹介してみたい。
 詳細は後に譲るとして、この構想図の特徴をいくつか挙げてみよう。

 @港湾整備
 A運河の建設
 B脊振山に鉄路のトンネル
 C糸島運河の建設
 D区制の導入。

 迫りくる戦局の悪化と、程なく迎える終戦で結局この構想が日の目を見ることはなかった。
 ところが、それから6年後、この構想をより深化・発展させ、現実的な視点から論じたものが表れる。昭和24年、運輸省の技官、太田尾廣治が著した「大福岡市の構想に就いて」(以後、太田尾構想と略)がそれである。発行所は福岡商工会議所。その中で太田尾は次のように警告を発している。
 「戦災復興の今日直ちに貿易を対象として都市が拡大される準備に取りかかる必要がある。それには港からの整備が先決問題で同時に船を呼ぶ貨物の用意を真剣にせねば一切の構想は夢物語りに終って再び悔を千年に残す結果を繰り返えす」
 博多港は天然の良港として知られている。天然の良港とは小船時代に適した港ということで、その後の大型船時代には水深が浅くて使い物にならない港ということである。ましてや今の大型コンテナ船時代には15mの水深が必要とされている。現在、香椎アイランドパークにコンテナバースを建設し、そこまでコンテナ船の水路を確保しようとしているが、もし戦後復興のこの時期にいち早く港湾整備に着手していたら、北九州市に遅れを取ることもなかったかもしれない。航空機の時代に船でもあるまい、と思われるかもしれないが、ICのようなものを除けば今でも国際物流の主役は船であり、その需要は縮小するどころかますます増大しているのである。


 幻に終わった「博多運河」建設
 今注目される「糸島運河」構想

さて、太田尾構想は福岡市は東京、大阪に次ぐ大都市に発展するポテンシャルを持っているにもかかわらず、人口が「僅か大阪市の一割に過ぎない三十万程度に止っていた」のは河川を運河として利用する努力をするどころかかえって厄介視し、市街地の道路は狭いままだし、海は浅く、せいぜい帆船ぐらいしか利用できないからだ、と説く。
 一方、東京は約700万、大阪が350万の人口を養う大都市に成長したのは、「都市内の交通の近代化、即ち電車や自動車本位の都市計画をなし、他方従来の河川、運河を活用し、新に獲得した近代式港湾の機能と対応せしめ工場の経営を有利ならしめて活発な経済活動を始めた結果」であると。
 では、なぜ港湾の機能整備と運河の建設が都市を発展させることになるのか。その点に関して太田尾構想は「港の基本構造物を造りさえすれば直に大発展をなし得ると考えるのは余りにも甘い考え方である」とハード偏重の考えを退けながら、港湾機能整備の目的は「福岡市内及びその周辺に工業を誘致する」ことだと説く。つまり「築港のために工場が建ち生産が激増し市民の所得が高まり交通、水道、公設市場等の福利公共事業となって市の財産が蓄積され、便利となり高層建築が櫛比し益々都市の繁栄する」と分析する。
 「福岡市は金融やサービス業重視で、製造業を冷遇している。このままでは製造業は出ていくしかない」
 製造業の取材中によく聞く声である。そして実際、福岡市の周辺市町に工場を移転した企業も多い。消費都市から生産都市への移行の思想が色濃く盛り込まれた太田尾構想とは逆の方向に進んでいるのが現在の福岡市だろう。そのことの是非はしばらく置くとして、もう少し太田尾構想に耳を傾けてみよう。
 注目したいのは運河の建設を生産基地との関係で説いていることである。いわく「福岡湾の開発要領は一言にして言えば工場を伴う河川の利用である」。そして那珂川、石堂川、宇美川、名島川を結ぶ「博多運河」を建設し、「工場地帯を造成して博多港区の後方地域を確立」する。つまり現在の東区に重工業地帯をつくろうというわけだ。また室見川と十郎川を「姪の浜運河」で結び、一帯を窯業関係を中心とした軽工業地帯と位置付けている。当時、早良には炭坑があり、その点を考慮しているのである。
 さらに今津港と唐津湾・加布里港間に「糸島運河」を掘り、その一帯を大加工工業地帯にする構想を打ち出している。
 現在、運河の効果に関しては大学人の間でも否定的な見解が多い。国内物流の主役が船からトラックに移っているため仮に運河が建設されていても全く役に立たないというわけだ。
 だが平成の時代になって、この運河の可能性を探る動きが現れているのは面白い。福岡県海洋スポーツ協会の高松隆之助会長、というより高松組の社長といった方が分かりやすいだろう。「糸島運河を考える会」を設立し、座談会を開催するなど市民のコンセンサス作りに向けて動いている。高松氏によれば会設立のきっかけは博多湾に浮かぶプレジャーボートの混雑ぶり。
 「博多湾を出て玄界灘を60海里走れば加布里湾があるが、そのコースは北西季節風の荒海に阻まれ、小型船では走破できるチャンスはわずかしかない。今津と加布里湾を結ぶ水路を建設すれば風波に妨げられることなく行動できる海が2倍半に広がる。またウォーターフロントとして糸島半島周辺を活性化することもできる」
 当初、糸島運河建設構想が戦前にあったことは知らなかったらしい。ところが、この会の活動の中で昔年の構想を知り、実現に力を得ているとのことだ。現在、糸島半島には九大の移転も予定されている。キャンパス・シティとして周辺の開発を考えるなら、糸島運河の建設もぜひ実現したいものだ。


 博多駅の後方移転と
 西鉄・赤坂新駅の建設

 驚くべきことに構想図にはすでに区制の導入が盛り込まれており、太田尾構想では博多駅の南方移転が明確に記されている。
 現在、福岡市は博多区、中央区、東区、西区、早良区、南区、城南区の7区に分かれているが、昭和47年に区制を敷いた当初は5区である。ところが、それより約30年前に作製された構想図にはすでに8カ所の区役所が書き込まれているのである。
 博多駅が現在地に移転したのは昭和38年12月。それまでは現在地より500m海寄り、現在の地下鉄祇園町駅辺りに位置していた。それを太田尾構想では「現在の博多駅を貨物駅に変更し、市内の鉄道小荷物を一手に取扱わしめるか、若くは石堂川の右岸国道との踏切附近に新貨物駅を設け」ることを提案しているのである。そして竹下駅までの線路を博多駅とともに撤去し、「新しく香椎駅より新線が宇美川東方に敷設され野入(犬飼)附近に福岡新中央駅が設置されて現博多駅裏側(南)に博多運河を導入すれば商業中心地区が福岡新中央駅まで拡大する」と中心部の拡大まで構想しているのはまさに卓見だろう。
 もう一つ、こちらは実現されなかったが西鉄福岡駅についても移転を提案している。西鉄大牟田線は平尾駅から薬院駅に向かってカーブを描き、終点の福岡駅へと延びている。それを西鉄福岡駅を廃止し、平尾ー福岡駅間の線路を撤去。そして平尾駅からほぼ直線に赤坂まで延ばし、赤坂に新駅を造ろうというのだ。現在の天神地区の交通混雑を考える時、赤坂新駅の建設が実現されなかったのは非常に残念な気がする。


 脊振山にトンネル
 駅東にセントラルパーク

 「昔の人は気宇壮大ですよね」。構想図を前に福岡大学工学部・吉田信夫教授をこううならせたのが脊振山にトンネルを掘って、博多駅と長崎駅をほぼ直線距離で結ぶ構想である。当時も現在も、長崎本線は博多駅から一度南下して佐賀県鳥栖駅まで走り、そこから今度は西に向かって走っている。そのため地図上でも明らかに遠回りをしている。少なくとも博多駅から佐賀駅に真っすぐ鉄道を延ばした方が距離的に近いのは明らかである。にもかかわらず、そうなっていないのは一つには途中に脊振山が横たわっているからである。それなら脊振山にトンネルを掘ればいいではないか、というわけだ。
 すでに昭和17年6月には関門トンネルが開通しており、関門海峡の下にトンネルを掘っているのだから脊振山にトンネルを掘るぐらいはなんでもないと考えたのかもしれないが、長崎と福岡を短時間で結ぶ必要性もあったのである。それは当時九州の海外貿易の拠点はまだ長崎港だったからであり、長崎港に陸揚げされた物資をできるだけ速やかに福岡に輸送する必要があったからである。
 太田尾構想にはセントラルパークの建設も盛り込まれている。場所は現博多駅の東側、合同庁舎が位置している一帯である。30年後の緑あふれるセントラルパーク周辺を散策してみよう。
 「中央公園は市民の溌剌たる『動』の蔭に反省えの黙想と叡智の溢れた思索が常に籠る『静』の林や森をまじえ市民に科学、芸術、哲学、政治、経済の真髄を教える様な各種の施設が設けられ、明朗な雰囲気が醸し出されている。中央に人工の湖水が造られているが、それに影を落しているものは小動物園、公会堂や県の議会建築、科学博物館、ホテルや音楽室、各種の図書館、絵画館等で大濠公園や城跡附近が国際的なるに反しここは全く市民のものであり、九州各地の県民が好んで訪れ交歓する場所である」
 イメージはニューヨークのセントラルパークであるのは間違いないだろう。このほかにも自転車専用道路や電線の地中化などがすでに盛り込まれており、50年も前に考えられた都市開発構想とはとても思えない。
 さて、これらの構想がその後の福岡市の都市計画にどう生かされ、あるいは無視されてきたのか。その検証はまた稿を改めて行いたい。

         ('96.12月 データマックス刊「IB」冬季特集号に掲載)


(著作権法に基づき、一切の無断引用・転載を禁止します)

トップページに戻る 栗野的視点INDEXに戻る