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変わる地方の風景


 久し振りの帰省である。
昨年は帰省しなかったから2年ぶりになる。
 私の故郷は岡山県と鳥取県、兵庫県の県境、中国山脈の麓の過疎の町、と皆に説明しているから、恐らく人里離れた田舎の一軒家、とまでは思ってなくても、コンビニも銀行もなく、日常の買い物にも困る山深い地方を想像している人もいるようだ。
たしかに過疎は過疎の町である。
居るのは私が子供の頃から見知っている近所のおばさんやおじさんばかりで、若い人は誰一人いない。
 だが、町には小・中・高校があり、銀行、郵便局、さらにはコンビニまであるから、皆が抱いているイメージを多少は裏切りそうだ。
しかし、これこそが現在の地方の風景なのだ。

地方ですべてが手に入る

 ところで、過疎だとばかり思っていた町が平成の大合併で市になった。
市といってもCityではない。市街地らしきものはどこにも存在しない。代わりにあるのは郊外道路の両脇に点在する大型スーパーにホームセンター、家電量販店、紳士服専門店、ファミレス、そしてカーディーラー、さらには小ぎれいな総合病院まである。しかも、すぐ側を高速道路が走り、おまけにインターチェンジまであるのだから下手な街よりよほど便利がいい。

 今回の帰省では特に、この便利さを享受した。
一つには年末から体調の異変を感じ、最悪の場合、正月休み中に緊急入院の危惧もあり、帰省を取りやめるかどうかと考えたが、それでも帰省したのは故郷に設備のいい総合病院ができていたからで、万一の場合、そこに入院すればいいだろうと考えたことが大きかった。
 二つ目は大晦日、元旦と買い物に出かけた時である。
大晦日は石油ストーブを買い換えにイオンまで出かけたし、元旦は前夜、突然壊れたノートパソコンを買い換えるためにデオデオの初売りに出かけたのだった。

 人口120万人の福岡にいる時と全く変わらない便利さが、人口数万人の地方で手に入るのは不思議としか言い様がないが、現実はむしろ逆で、都会の福岡より田舎の方が周辺道路は混まないし、駐車場は無料だし、大型店も多く、かえって便利なのだ。
 唯一、心配した通信回線も8MのスピードまでとはいえADSL高速通信回線が使えることも分かったので、普通に生活する分にはなんら地方で困らないどころか、地方の方が便利でさえある。
 それなのに地方が過疎になっていくのはなぜだろう。
理由はただ一つ、充分な職場がないことだろう。

開発のしやすさが地方にショッピングセンターを呼ぶ

 ところが、一見非常に便利に見える地方のこの環境も、見方を少し変えれば不便極まりないのだ。しかし、そのことを見る前に、なぜ地方の郊外地に大型ショッピングセンターが次々に建設されるのかを考えてみたい。

 理由1:旧市街地では広大な売り場面積を確保する場所がない。
 小売業の売り場面積は拡大の一途をたどり、一昔前に大型店と呼ばれていた店舗はいまや中型店にしか過ぎず、消費者にとって魅力ある商品(数量的にも、商品数的にも)を展示するにはスペースが狭すぎる。魅力ある店作りをし、消費者を引き付けていくためには(そのことが自らが生き残っていくことにもなる)売り場面積をある程度広げていかざるを得ない。
 旧市街地でそれが可能ならいいが、それだけのスペースを確保するのが非常に難しいし、また投資コストから見ても地価の高い旧市街地より田んぼの中に作った方がはるかに安くつく。
 ダイエー等の一時代を画したスーパーが次々に破綻していった一面もここにある。
これらのスーパーは当時駅前や繁華街の一画を占めていたため、売り場面積を拡大したくても拡大できない、あるいは拡大できても費用対効果が合わないため、当時の大型店は衰退していったのである。

 理由2:多層階より低層階の大型店
 売り場面積の拡大という場合、多層階にする方法もあるが、同じ売り場面積なら低層階の足元にも及ばない。
 まず、広いワンフロアの方がレイアウトがしやすいという点がある。これは店舗側から見た利点である。
 消費者側からすれば心理的に上下移動より水平移動の方が動きやすいようだ。これは小売り店舗に限ることではないが、施設屋上の駐車スペースより施設併設駐車スペースの方が先に一杯になることからも明らかである。

 理由3:車社会に対応できなくなった。
 市街地の店舗は充分な駐車スペースが確保できないか、確保できても店舗との間に距離があったり、有料なことがほとんどである。対して郊外は広大な駐車スペースが確保できる。しかも、駐車料は無料。となると、消費者も郊外店舗の方に流れる。

貧困な行政が地方を崩壊させる

 理由4:国と地方行政の貧困が原因。
 大型ショッピングセンターを田んぼの中に建設すると言ったが、実際、農地を転用して作るパターンが多い。では、なぜ農地の転用なのか。それは農業が金にならないからだ。農業をする方がもっと面白く、しかも金になるなら誰も農地を手放さないはず。ところが、そうでないから農地を手放すのだ。これは減反政策などを続けた国の農業に対する無策から来ている。余談だが、先進資本主義国の中で日本ほど食糧の自給率が低い国はない。
 一方、地方行政には長期的な視野がないから、手っ取り早い税収アップとわずかばかりの雇用の確保を狙って積極的に誘致さえ行っている。その結果が地元商店街の衰退を加速させ、地方を荒廃させることになっても。

 理由5:我が儘な消費者。
 日本の消費者の我が儘が日本の流通小売りを歪め、小売業が農業を歪めている。
元はと言えば中身より見てくれ、体裁を好む消費者の度が過ぎた清潔好きと我が儘に端を発しているのだ。その一方で、食の安全を叫び、有機無農薬栽培、地産地消をブランド化している。ロハスなどは完全にブランドになってしまっている。
 結局、消費者のこうした態度は新しいブランドを求めているだけであり、地産地消を望んでいるわけでも、有機無農薬栽培の商品を買おうと思っているわけでもないのだ。もしそうなら、それらを実践している農家がもっと楽になっているはずだが、現実はその逆である。

弱者をどんどん切り捨てる地方

 話しが横道にずれ過ぎたので本題に戻そう。
一見、便利になったかに見える地方の環境が、実は不便極まりないのか。
 私は車でわずか20分以内の距離を移動するだけで、欲しいものをほとんど手にすることができる生活を、なぜ不便と言うのか。
 カラオケがない、パチンコ屋がないからではない。そんなものはすべてロードサイドに揃っているし、いまや日本全国どこの地方でも目にすることができる光景だ。
極論すれば、いまや地方で手にすることができないものはないといっていい。グッチもプラダも東京・三越でなくても、佐賀県でも(というと怒られそうだが)、地方で買えるのである。デパートで買うより1ー2割も安く。
 さすがに歌舞伎町ほどのSEX産業こそまだないが、その他の欲望を満たすものは、いまや地方にすべて存在するのである。

 たった一つの条件さえ満たせば、誰でもこうした便利さを享受できる。だが、この「たった一つの条件」こそが実は非常に重要なのだが、行政を始めとしてそのことを忘れ、あるいは故意に無視した結果が平成の大合併で出現した「市」という名の地方であり、郊外店である。だから、一向に地方の生活がよくならないのは当たり前だといえる。

 たった一つの条件とは「車」である。
現在の生活は「車」を前提にして成り立っている。ところが、この前提を取り去れば不便なこと極まりない。
 例えば町村合併で山の上の方に行ってしまった役場や、豊富な商品が並んでいるスーパーも車がなければ、そこに行くことさえできない社会。こんな社会が果たして便利といえるだろうか。

 しかし、現実には高齢化がどんどん進み、車に乗れない人達が増えている。それなのに地方は車を前提にこれから先も進もうとしているのである。
 仮にもはや車を前提にしないと、この社会そのものが成り立たないとするなら、公共交通機関を充実すべきだろう。具体的に言えばショッピングセンターや行政機関をセンターにした公共交通機関を作り、しかも本数を多くすべきだ。日に数本しかない乗り合いバスなどなんの解決にもならないし、利用者が増えるはずもない。
 そういうことをしないでショッピングセンターだけ誘致する行政は明らかにおかしい。

物まねを止めるところから本当の町おこしが

 さらに奇妙なのは、行政そのものが郊外に移転したり、総合病院、図書館などの行政機関までもが郊外に移転しながら、旧市街地の活性化を唱えていることだ。

 町おこしを唱えるグループや商店街も同じだ。テーマパークで成功したと聞けば日本全国どこもかしこも同じようにテーマパークを作りたがるどころか、街そのものをテーマパークにしようなどと考える政令指定都市さえあるのだから、個性がないというか思考ゼロだ。
 どこそこが「昭和の町」づくりで話題になったから我が町も、と二番煎じ三番煎じをする。その結果、あちこちに「昭和の町」が出現し、その内話題にさえ上らなくなる。土蔵作りの町並みと同じで中途半端にやるものだから個性も何もないコピーのような地域ばかりが増えていく。
 こうして地方から、その地方固有の風景がどんどん消え去り、日本全国どこでも見られる同じような風景ばかりになっている。


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