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長崎バイオパークの破綻に思う。


 7月15日、長崎バイオパークが民事再生法の適用を申請をした。負債総額は21億7,700万円。
 予想されたこととはいえ、この報に接した時一抹の寂しさを禁じ得なかった。
いまから11年前、ハウステンボスで神近義邦社長(当時)に会った時のことを思い出したからだ。
 ハウステンボスがオープンして2年目。早くも神近氏は金融団から追い詰められ、経営の舵取りが難しくなりつつあったが、そんなことをまったく感じさせない顔をしていた。
その氏を前に、私は開口一番「ハウステンボスという上物を作った神近に興味があって取材に来たわけではない。バイオパークもオランダ村も見、ハウステンボスも建設中から見たが、バイオパークを見た時に、これこそが神近の原点だと感じたからです」
と、生意気にも言ったのだった。

 本当は立派なテーマパークなんか創ろうと思っていなかったんではないか。神近氏が創りたかったのは自然と触れ合う場というか、もしかしたら自然そのものだったのかもしれない、と思った。

 バイオパークはちょっと変わった「動物園」で、一般的な動物園を想像して行くと
完全に期待はずれになる。そこにはライオンもトラもゾウもいないからだ。
代わりにいるのは小動物達で、最も大きな動物はキリンぐらいなものだった。
だが、一つだけよその「動物園」と決定的に違っている点があった。それは動物達を囲う檻がないということだった。
檻の代わりをしているのはトンネルの闇だったり、小さな、川とも呼べない溝だった
りする。

夜盲症の鳥たちにとってトンネルの闇が結界になり、その向こうの世界には行けないのだ。同じように水を怖がるキリンにとっては小さな溝が結界になっていた。
動物と人とが触れ合える動物園。それが長崎バイオパークだった。
しかし、そうしたことが分かって見ないと、バイオパークはとてもつまらなく見えた
に違いない。ハウステンボスでさえオランダの街並みを見るだけではつまらないという声が多かった。人々はディズニーランドのようなテーマパークを求めていたのだ。
結局、バイオパークの入場者数は開園6年目の1986年に58万人を記録したのがピークで、以後は減少に転じ、最後は19万人まで落ちた。

 ハウステンボスは2年目にして早くも行き詰まりつつあった。
バブルが弾け、分譲別荘地がほとんど売れなかった。そのため銀行団からやいのやいのと言われているのは想像に難くなかった。
「私が銀行団でも分譲をレンタルにでもして日銭を稼げと言うでしょう」と神近氏を
前に言ったが、どうもその通りのことを取締役会で言われていたらしかった。
「どういう物差しで測っているかだ。目の前の数字に慌てても仕方がない。小細工をするとかえって後で取り返しが付かなくなる。頑固にコンセプトを守って、クオリテ
ィにこだわりながら徹底してやることだ。でなければ、私がやる意味がない。不動産を小口化したり賃貸したり、この中をいじくっていろんなことを安上がりにするんだったら、私じゃない方がいい。私にはできませんから」
 この言葉を聞いた時、神近氏は辞める気だなと思った。

 神近氏のことをいろいろ言う人もいるが、私は頑固にコンセプトを守り、1000年先を夢見てやる神近氏が好きだ。
 だが、そんな個人的な感情を抜きに冷静に見ると、やはり神近氏も時代の寵児というか、銀行におだてられ、踊らされた一人だったと思う。

 銀行におだてられ、持て囃されると皆間違いなく道を誤るようだ。
かつて四国の「大将」と言われ、次々に会社を再建した坪内寿夫氏もSSKの再建で失敗した。
彼らに比べれば最近はスケールが小さい。
そんな人間が銀行に「企業再生人」などと言って煽てられ、いい気になれば、末路はもっと惨めだろう。
銀行家の煽ては死への一里塚と心掛けるべきだろう。

04.07.17


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