終活に向けて(2)
古本の世界にも蔓延る商業主義


「断捨離」とは無縁の生活

 足の踏み場もないほど部屋が散乱しているのはルームシェアすることにしたからだが、その結果GWからずっと部屋の片付けに追われている。なんといっても30数年の歴史が詰まった荷物で一杯。箱を開ければ結婚前に妻と交わした手紙の束が出てきたり、随分昔に贈った大して高くもないプレゼントが大事に取ってあったりするものだから、その度に過去へタイムトラベル。こんな調子だから片付けは一向に捗らない。というか、本当は片付けたくないのが本音かも。

 我が家で多いのは妻の衣類と食器類、そして私の本と資料の類。「断捨離」という言葉が流行ったが(いまでも流行っているのだろうか)、私達2人は「断捨離」とはおよそ無縁な世界。なんでも捨てずに、それこそ紙袋まで取っておくという貧乏性だから物はたまる一方。食器は割れるまで、衣類は破れるまで捨てられない。特に私の方は。
 どんなものにも生命がある。その生命を全うするまで使ってやるのが愛情というもの。この間なんか、ここ数年着てなかったジャケットを引っ張りだして久し振りに着たところ、会った人からいい洋服着られてますねと褒められた。いやいや20年前に買ったものなんですよ。ただ着ていた回数は多くないから見た目はほとんど新品。
 デザイナーズブランドの割にはトラディショナル。流行りのデザインでなかっただけに時代が変わっても十分通用する。というか、流行は20年サイクルでほぼ元に戻るから、ちょうどいま頃1周遅れで時代の感覚と合ってきた。決して私のセンスと着こなしがいいからではない。

 まだ着られる、使える、読めるから、できれば誰かの役に立って欲しい。捨てるなんてとんでもないと思い、使えそうなものを試しにリサイクルショップに持ち込んでみた。二束三文での買い取りと多少覚悟してはいたが、「引き取れない」と言われたのにはビックリ。「飛行機以外はなんでも買い取る」なんての、まさに看板に偽りありで、食器類は未使用品に限り、衣類は今流行のデザインのもので、なおかつブランド品に限り1着いくら(3桁)。それ以外はトンいくらの世界と言われた。
 それなら自分の手で1枚1枚焼き捨てたいと思ったが、都会のマンション暮らしではそれもできない。かといって田舎に持って帰るにしても荷物が多すぎるし、日数がない。やむなく目をつむってゴミ袋に押し込んでいった。共に過ごした時間と思い出と一緒に。

文化が消え、はびこる商業優先

 古本は資料価値があるものや哲学・評論・歴史関係書などを除き、一般受けしそうな本をとりあえず10数冊ブックオフに持ち込んでみた。結果はここでも同様で、新品同様に傷みがない本のみ1冊10円程度、新品同然の単行本で100-200円。
 書籍で問題なのは全集やシリーズ物。書棚の中でも場所を取る上に重いから、木製本棚はもちろんのことスチール製本棚でさえ中程が弛んでくる。
 書籍が重く床が抜けては困るから、住まいは絶対1階という作家もいたが、私も自宅で書斎にしていた床は抜けないように補強工事をしていた。
 全集等は古いこともありブックオフでは買い取ってくれない。第一、本の内容を判断せずに一律の買い取り査定するところに売却したのでは、本にとっても不幸というものだ。そこで、これらは昔ながらの古本屋に売却することにした。

 だが、ここでも発見、というか時代を感じることに。ネットで調べると、いわゆる古本屋が少ないということに気付いた。かわりに多いのがネット販売中心の古本屋。それも若い人がやっている。
 若い人が本に興味を持ち出したということではない。興味を持っているのは転売ビジネス。手っ取り早く転売できるのがネット売買で、古本はそのための材料にしか過ぎないようだ。
 彼らにとって必要なのは本の価値(内容、希少性、テーマ性、発行部数)ではなく市場性。要は売れる本のみを扱うというわけで、そこには商業主義の原則しかない。なかでもネット売買中心の古本屋(といえるかどうかは別にして)は転売利益稼ぎだから在庫は極力持ちたくない。いわんや売れるかどうか分からないような本は特に。分かりやすく言えばヤフーオークションに毛の生えた程度だが、誰も現実店舗を見に来るわけではないからそれでいいのだろう。

 昔、古本屋のオヤジといえば、いかにも本好きという人が多かったし、文化を守り伝えていくという気概なようなものさえ感じていたが、いまやそんなものは皆無。外装の良し悪し、発刊年度が新しいかどうか等で一律に判断する市場流通優先主義。
 書籍も文化ではなく商業主義で取り扱われる時代と言ってしまえばそれまでだが、なんとも砂を噛むような味気ない時代になってしまった。
 ただこうした傾向は古本屋のみではなく公営の図書館でさえそうだから、時代の波と諦めるしかないのかもしれない。

行き場をなくした古本

 結局、本として価値がある物は古本屋に売れず、かといって書棚を占領させたままにすることもできず処分に困った。もし、自分が研究者だったら、これらの本は資料価値もあり欲しいところなのに、活用してくれるところもないとはなんとも悲しい時代になったものだ。しかし、そんなことを愚痴っても仕方ないので、受け入れてくれそうな寄贈先を探すことにした。
 幸い中国の現代史関係の本は日中友好協会が引き取ると言ってくれたので段ボール箱1箱をお願いした。ついで「写真で見る激動の記録 昭和史(毎日新聞社刊)」19巻、「日本プロレタリア文学体系(三一書房)」9巻、「人間と科学シリーズ(ライフ社)」25巻の寄贈先は福岡市総合図書館に決まった。これで書棚はかなり軽くなった。

 その次は雑誌類だが、これはもう廃棄処分するしかなさそうなので、清水の舞台から飛び降りる気持ちで、というと多少大袈裟かもしれないが、私の中ではそれぐらいの気持ちで資源ごみリサイクルに出した。
 ついでにいままで溜めた資料やスクラップの類も思い切って大半を捨てた。これで1つの本箱ぐらいはなくなったはずだが、見た目は全く変わらず。
 元々収納のキャパシティーを大幅に超えており、玄関や廊下にまで書棚を設置し、それも前後の二重積み。言ってしまえば本棚から見える倍近い量の本があったわけだから、かなり思い切って処分したつもりでも本棚の数は全く変わらない。それどころかいろんな場所に押し込んでいた本や書類が次から次に出てくるものだから、かえって増えたような気さえする。といってもこれ以上、本の処分はできないのでもう諦めるしかない。

アナログ保存を見直す

 困ったのが取材ノートや取材テープの類。ノートは迷うことなく全冊まとめてダンボール箱に詰めた。箱に入れて収納すると読み直す機会がほぼなくなるから、本当は本棚に立てておく方が好きなのだが、スペース確保のためにやむを得ない。
 問題は取材テープやMD。全部保存しておいてもと思うが、いちいち選り分ける時間がないので、これまたまとめてダンボールに収納。MDはソニーが機器の生産を打ち切ったのと時期を合わせて、愛用していた所有機器の方も半壊れ状態になったから、今後MDの録音内容を再生することもできない。それを考えればMDを保存しておいてもあまり意味がなさそうな気もするが。

 その点、カセットテープの方はいい。カセットデッキはまだ存在しているはずだし、ICレコーダーと違い、1本1本にタイトル、日付、内容を記入しているから、後で探す時も楽だ。ICレコーダーはSDカードに保存できるが容量が大きすぎて、かえって使い勝手が悪い。
 写真にしろ音声にしろデジタルになって便利さが増したようだが、その一方で愛着はなくなった。テープやMDの場合は74分、90分という時間制約があり、取材時間もその範囲内に収めようとしていたが、ICレコーダーになると時間制限はないに等しいから緊張感も緩む。時間が長ければ後で聞き直すのも面倒だから、結局録音しただけになり、溜まってくると「デリート」で削除して終わり。
 写真もデジタルはハードディスクドライブ(HDD)の中に保存。フィルムなら焼き付けてアルバムに整理しているから後で見る時でも皆で回し見などができるが、デジカメ写真はPCの中でしか見られない。もちろんデジカメ写真でも焼き付ければいいわけだが、そこまでする気がない。

 部屋の片付けをしながらいろんなことを考えてしまった。それにしてもいつからこの国は「モッタイナイ」とは無縁の国になったのだろうか。
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