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 被災地からのレポート(3)−−母が少しずつ壊れていく。


 「もう何かもかも無茶苦茶」「長生きしたばっかりに、こんな目に遭った。早う死んどけばよかった」
 あの日以来、母は日に何度となく、来る人ごとに、あるいは独り言のように繰り返している。
そして日が経つに従って、この繰り言は減るどころか増えだした。
ここ数日はいましたことまで忘れるようになってきた。

「もう私もいけん。最近は少し惚けよるで」
「そんなことはない。大丈夫や。まだしっかりしとる」
 弟も私もそう言って母を励ましているが、もしかして、と思わないでもない。
いままで突いていた杖がない、財布がない・・・。
その度に探し回らなければならない。
「水害の時の方がシャンとしとったのに、最近の方があかんわ」
 自分でもそう言う。
いままで自分でなんでもしていたのに、水害以降こちらがなんでもしてやるようになったことが逆効果なのか、それとも認知症の症状が出始めたのか・・・。

 大きな災害などの後、老人が認知症になる例は数多く報告されている。
老人だけではない。年齢を問わずPTSD(心的外傷後ストレス障害)に苦しむ。
 最初の頃、母がよく聞いてきた。
「今日は何日?」「水害が起きたのは何日だったかな?」
そしてその後、必ずこう言ったものだ。
「もう日にちさえ分からんようになった。惚けて来だしたで」と。
 日にちの感覚が分からなくなるのは母に限ったことではない。
私も同じだった。
外界との接触がなく、来る日も来る日も同じようなことをしていると、今日は何日なのか、あれから何日経ったのか分からなくなる。
第一そういうことが必要でないから考えもしないが、なにかの機会にふと今日は何日なのだろうかと思い、日にちが分からなかった時は誰しも不安に襲われる。
もしかして認知症になったのでは・・・、と。
高齢者ほどの不安にさいなまれる。
そして不安がさらに不安を呼び、ますます不安を増幅していく。

 こうした不安は他のことをしたり、誰かと話すことにより多少なりとも解消するものだが、独り生活だったり、避難所暮らしだと、不安を口にすることもできないからますます不安になり、そのことがかえって認知症を引き起こすきっかけになる。
 今回の被災でも避難所生活を余儀なくされた人も結構いるようだが、幸い我が家は避難所生活をすることもなく助かった。
 同じ美作市でも土居地区は水道、プロパンガス、電気などのライフラインがストップし、厳しい復旧作業になったが、幸い実家がある江見地区はライフラインがストップしなかったのが不幸中の幸いだった。

 被災直後は身内の加勢もあり、皆が忙しく動き回っていたので、母も気が張っていたようだが、それでも目の前に繰り広げられている光景を現実として受け入れられないように見えた。
 していることもちぐはぐだし、自分の身の回りの小さなものを指してはあれがない、これはどこへ行ったというので、かえって作業の邪魔になった程で、とてもいつもの母ではなかった。

 このままでは認知症になる。
そう感じたので、弟と相談して早く畳を入れることにした。
できるだけ早くいままでの状態に近い環境に戻すことが必要だと感じたからだ。
いままでの状態に近い環境といっても、おいそれとできるものではないが、最も悲惨な状態を隠し、一見普通の生活に近い感覚にするためには畳を敷く以外にないと考えた。
 それに畳屋は仕事が忙しくなるだろうから、予約だけでも早くしておかないと畳がいつ入るか分からなくなると考え連絡した。
それが盆前の12日。その日のうちに採寸に来、盆明けの17日に納品するというので、ちょっと早すぎるかもと思ったが即決した。

 床上浸水した家屋の中で畳を入れたのは我が家が一番早かったと思うが、畳が入った翌日から母の行動が変わった。
いままでなにもできず、ただウロウロしていたのが少しずつ自分の身の回りのことをし始めたのだ。
「無茶ばっかりしよる」と言いつつも、行動に落ち着きが見られ出したので、このまま一気に認知症にはならないだろうと少しホッとした。

 しかし、本当に心のケアが必要なのは、これからだった。


  美作市・佐用町の水害被災写真は下記ブログに載せています。
   「栗野的風景」 http://blog.livedoor.jp/kurino30/



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