宗教とは何か〜二極化する役割(4)


 最後に宗教と神について少し触れておこう。
現生人類(ホモ・サピエンス・サピエンス)と宗教の誕生はほぼ時を同じくしていると考えられる(詳細に検証したわけではないが)。
 人類と他の動物の違いは火を扱ったか否かなど色々あるが、際立った特徴は「考える(思考する)」という点である。だが、「考える」ことが人類を人類たらしめたと同時に、そのことが人類の弱点にもなった。
 例えばライオンやヒョウに思考はない。こう言えば、獲物を仕留めるために風下から接近したり、待ち伏せするし、シマウマのように弱い動物の集団は襲われそうになると円陣を作って防御姿勢を取るではないか、動物も考えているではないか、と反論されそうだが、彼ら動物の行動は考え(思考)た行動というより本能的に身に付けた(経験から体得した)行動である。
 言うならそれは「即時的考え」であり、人類(ホモ・サピエンス・サピエンス、以下同)の場合は「対自的考え」といえ、「想像(創造)」を伴っている。行動する場合の因果関係を想像し、次の行動に結び付ける。あるいは新しい道、方法等を創造することができたため、力や走る速さで劣る人類が現在まで生きながらえてこられたのである。

 しかし、本能的な行動ではなく、考えて行動するようになると、今度は不安に襲われるようになる。こうすれば本当にこうなるか、ああすればこうなるのか、ほかの結果になることはないのか、という不安が付きまとう。結果に対する内なる不安であり、これこそが人類の弱点になった。

 すべての結果、いい結果も悪い結果も自らが引き受ければ正常さを保つことが難しくなり、精神の破綻を招くようになる。それを避けるためには自分以外の何かに決定するという行為を引き受けてもらわなければならない。言うならば責任逃れをしたいわけで、その役目をほかの何かに頼みたくなる。
 かといって集団内のほかの誰かに頼めば、いままで自分が持っていたリーダーシップを失い、権力の座もその誰かに奪われかねない。できれば集団に近い存在でありながら、集団を超越した力であり、自分の分身のような存在が望ましい。
 かくして神が創られた。「天の声」「創造主」等々様々な名称で呼ばれようとも本質は同じである。

 だが、最初は自らの代弁者であった「神」がやがて独立した存在になっていき、独自の「人格」を持ってきて、集団から崇められることになる。ここに、その「神」を崇める宗教が生まれる。
 同じことは現代でも繰り返され、かつての「神」はいまではコンピューターの向こうにバーチャルな存在として「実在」するようになり、一部の人々の間でそのバーチャル神はあたかも実在神であるかのごとくに思われ、彼らの生活を牛耳り始めている。

 さて、現実世界はどうか。科学が生活を豊かにする、人を幸せにすると信じられた「科学信仰」は公害、大気汚染、戦争、地球温暖化という様々な現実の前に脆くも崩れ去り、いまの若者は科学以外の別のものに「救い」を求めている。
 本来なら宗教がその役割を果たすべきだろうが、伝統宗教は中身より器、外観に走り、華美な建築、飾り立てた衣装を誇り、精神世界より資本主義世界で贅を貪っている。ドイツの哲学者ニーチェは「神は死んだ」と言ったが、それでもまだ彼は無神論ではなくキリスト教会の現実に対する反発でしかなかった。それはイギリスのキリスト教会に反発したビートルズも同じだったし、タヒチに新天地を求めたゴーギャンも同じだった。
 彼らに比べれば、いまの若者はもっと純粋に魂の救いを求めつつ、その一方で未来に失望し、行き場所を見失っているように見える。ここでは伝統宗教は救いにも安らぎにもならない。そこに入り込んでいるのが新興宗教と伝統宗教の中でも原理主義的な宗派だろう。

 世界的に見ても、いまほど宗教が必要とされている時代はない。にもかかわらず伝統宗教は宗教本来の役割を見捨て、自らの体制を守ることに汲々としている。宗教とは何か。何をなすべきかを真剣に考えなければ、宗教は消失せざるを得ないだろう。そのことに対する、フランシスコ・ローマ教皇の危機意識はかなり強いように見受けられるが、日本仏教界はどうか−−。
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