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拡大再生産する、若者の迷惑行為について(3)


 もう、50年以上前の読書の体験です。ご存知でしょうか、池田潔著[自由と規律」と言う岩波新書が有りました。イギリスのパブリックスクールでは、ゼントルマンとしての振る舞いという大げさなものでなく、善悪の区別を教育し、表題の言葉をしっかり考えさせ、身に着けさせるのだそうです。そして、矢張り社会人として、年齢を重ねたレベルで表記の言葉に則り振る舞う事が述べられていたように思います。
 「自由と規律」の絶妙なバランスは今なお残っているかは分りませんが。子供を一人の人格として扱え、自律性を尊重する教育など日本でしきりに語られる事は何を意味するのだろうか?「自律と規律」の絶妙なバランスを生徒の若い気持ちの内に築き上げること、その考え方は多様性に富んだものとしても、それが原点となるのではないか。

 この本が書かれた頃と一致するかどうかわかりませんが、戦後のアメリカナイズされた教育で、「権利と義務」のバランスを放棄した何でもアリの自由な戦後日本の教育に対する議論も巻き起こっていました。池田潔氏がそこを意識して表記の書を上梓したかは分りませんが。その頃の議論の悪い側面は明らかに日本に出ています。

 自民党の言う道徳教育の中身はここでは議論しませんが、モラルに対する社会の階層的なルールは有り、教師と生徒の対等な人格のルールに基づき概念を守るという仕組、上位概念も常にある考えが大切かなと、若いころ読んだ本を思い出しました。

 家庭の中でも親と子の関係に於いても同様な人格の関係と様々な規律のバランスを教えないと日本はいけない気がします。
 教師、政治家、学者、医者などの職業にとっても池田氏の著書は影響を持つものかもしれません。自分の努力で頂点を極めたと奢ることなく、人間は社会によって育てられていることが重要ですね。

 ついでに、少子化に対して、政府は子供は社会が育てるという考えを示しています。上記と一見同じ表現ですが、公共の金で解決することと池田氏の社会が育てることは異なるでしょうね。


 私は戦後教育を受けた世代ですが、「『権利と義務』のバランスを放棄した何でもアリの自由な戦後日本の教育」というには多少違和感があります。我々よりもっと後の世代がそうだったのかも分かりませんが、我々の頃は違っていたように思います。
 ただ、団塊の世代にも責任の一端がある、とは思っています。「ニューファミリー」と言われ、親子間に上下ではなく水平な関係を持ち込み、「友達親子」という形でメディアなどに随分取り上げられていましたから。
 この関係自体は悪いことではなく、むしろいいことだと思います。ただ、物分りのいい親→子供を叱らない→子供の言うことをなんでも聞く→甘やかし、という風に進み、このサイクルが繰り返されていくうちに、親子のコミュニケーションが失われていった側面も多少あるかとは思います。
 <補追:実践女子大学人間社会学部・広井多鶴子教授の「核家族化は『家庭の教育機能』を低下させたか」(クォータリー生活福祉研究、通巻57号 Vol.15)を読むと、親子間コミュニケーションは低下どころか逆に増えているようで、上記の私の指摘は間違っていそうです。広井多鶴子教授のデータを駆使した分析はとても参考になりました。>

 様々な要因が絡み合って道徳観やモラルの崩壊という現象が現れていると思いますが、その要因の主要な一つにコミュニティー(共同体)の崩壊があるのではないかと考えています。都市化の進展に過疎化と高齢化が加わり、コミュニティー(共同体)が崩壊してきました。その結果、人々は他人に無関心になり、社会で子供達を見守る、育てていくという機能が失われてきたのではないかと感じています。
 でも、人はどこかで、誰かにつながっていたい。関心を持ってもらいたい、のではないでしょうか。例えそれがネットでも。「目立ちたがり迷惑行為」の裏にはそういう感情も働いているのかも、と考えたりもしています。


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