北野天満宮で不思議を感じ、寺で仏教を考える。(2)
〜京都旅行雑感


寺院宗教とは一体何だろう

 寺院は三十三間堂、龍安寺、東寺を巡った。圧巻だったのは三十三間堂の千手観音。中央に巨像の中尊。その左右に500体ずつの千手観音の立像。当時は金色に光り輝き、見る者はあまりの眩しさに目を開けていられなかったに違いない。これこそ極楽浄土と感激し、光の中から観音様が現れる光景に人々はありがたがり、手を合わせ拝んだに違いない。ただ現在、1000体の立像は埃を被り往時の輝きを失った代わりに落ち着いた佇まいになっている。

 その荘厳さに思いを馳せる一方、埃を払い往時の姿に戻せばいいのにと考えもしたが、現在となっては下手に触れてどこかが壊れたり傷つくと困るから怖くて塵払いなどできないのだろう。
 その時頭に浮かんだのがなぜかレンブラントの絵画「夜警」とダヴィンチの「最後の晩餐」。あの暗い光景こそが夜警の雰囲気にピッタリと思わされていたが、実は埃でくすんでいただけで、原画はもっと明るかったようだ。「最後の晩餐」は往時の色が復活され(デジタルでのみだったか?)、いまでは水色の服を着た女性(キリストの妻、マグダラのマリアと思われる)が色鮮やかに蘇っているが。
 我々はオリジナルを尊重すべきか、それとも見えるものをありがたがるべきなのだろうか。

 1000体の千手観音像が埃を払われ金色の輝きを取り戻したら、どれほど素晴らしいだろうかと思う反面、別のことを考えもした。
 仏教に限らずキリスト教でも人々を救う教えとは裏腹に、自らを祭る建造物は金ピカに飾り立て、豪華な彫刻を施した立派なものを造りたがる。仏やキリストはそれを喜んでいるだろうか。彼らの教えからすれば、それは本末転倒ではないのか。立派な器を造りたがるのは、後の宗教者達が自らを立派に見せるためではないのか。教えの伝達ではなく形や外観に凝り出すと逆に中身が疎かになり、形骸化していく。現代の寺院宗教が民衆から離れて行ったのは教えの中身ではなく、目に見える形や物を重視しているからではないのか、と。

 もちろん、宗教建築が文化発展に大きく寄与した点は認める。だが、そうであるが故に宗教の本質から離れ、器重視に流れた側面がありはしないか。でなければ、今ほど宗教が必要な時代に宗教家の不祥事(軟らかい表現で)が相次ぐことをどう説明すればいいのか。
 威圧感すら覚える巨大建造物、金色に光り輝く仏像に芸術性を感じると同時に、坊主(キリスト教を含め)の非宗教的権威主義を感じ、「ボロは着てても心は錦」は歌の世界の中だけで現実世界はやっぱり見てくれ(外観)だろうなと、なんとも言い様がない割り切れなさを感じる京都旅行だった。

京都旅行の写真は「栗野的風景」2016年11月にアップしています。




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