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ドアの開閉に見る日米文化論的考察?


 今回はちょっと息抜きの話題。日米ドアの開閉方向の違いについて考えてみよう。
日本の玄関ドアは外開きだが、アメリカのドアは内開きである。
なぜ日本とアメリカでドアの開閉方向が違うのか。
 本来、日本の家屋は襖や障子に見られるように戸は横開きである。
それが西洋建築が入ってきた頃から玄関ドアは外開きになった。
住宅の洋風化ということからいえば、アメリカなどのように玄関ドアは内開きになるはずが、なぜ外開きになったのか。
 その理由はいくつか考えられる。

1.機能面

 まず機能面からいえば、日本の家屋はかつて「うさぎ小屋」と揶揄されたように欧米に比べ狭い。この狭い内部スペースを有効に活用するために考え出されたとする説がある。
 ドアを内開きにすれば、最低でもドアの幅(約80cm)の半径で弧を描くスペースを内側に取らなければならない。逆に外開きにすればドアの内側のスペースはムダにならず全て使える。
 マンションなどでは100%外開きドアを採用していることからも、この説が有効に思える。

2.文化面

 機能の面からではなく、日米文化の違いから来るとする説もある。
その際よく言われるのが、アメリカ人は訪問客を歓迎し「ウエルカム」と中に受け入れるからドアを内側に開くのに対し、日本人はあまり訪問客を歓迎しないから、相手を向こうに押しやるようにドアを外に開く、というものだ。
 なるほど、日本は鎖国政策が長かったし「ムラ社会」だから、接するのは同じ共同体の人間であり、共同体外の人間には警戒心を持っていたかもしれない。
そう考えるとこの説も納得できる気がする。
要するに日本人は明治維新以後、国際化してきたように見えるが、文化的にはまだまだ国際化されてないのかもしれない。

 こう見てくるとどちらの説も正しいような気がするが、それぞれの説で説明できない点もある
 例えば機能論。
たしかにほとんどのドアは外開きだが、ホテルのドアは例外なく内開きになっている。これをどう説明すればいいのか。
 内部スペースにゆとりがあるシティホテルの場合は機能論で説明付くが、内部スペースにゆとりがないビジネスホテルでもドアは内開きである。
 とすると、やはり文化的な違いか。

3.セキュリティ

 ここでもう一度日本式家屋を考えてみよう。
家屋内部の間仕切り的ドアは別にして、そもそもドアとは外部と内部を区別するものである。ドアという境界より内側は個人あるいは共同体のスペースだということを外部の人間や物に分からせるものでもある。
 このような境界としてのドアが本来の役目であり、それは日本においても明治以前からあったし、そのようなドアは外開きではなく例外なく内開きなのだ。
具体例で言えば城門は昔から全て内開きである。
 では、なぜ城門は内開きなのか。
その前に欧米の例を見てみよう。ヨーロッパの城門も内開きであり、アメリカでは西部開拓時代からドアは内開きだ。

 この例から分かるように外部の人間を受け入れる意思表示の内開きという説は怪しくなる。むしろその逆ではないかと思えるのだ。
常に外敵の侵入に脅かされていた西部開拓時代に「ウエルカム」と外部の人間を受け入れる姿勢の表していただろうか。
そうではなく、むしろ当時のドアは侵入防止の役割のためだろう。

 西部開拓時代や日本の戦国時代のように常に闘いに明け暮れていた時代のドアは洋の東西を問わず内開きだったのである。
それは外敵の侵入から速やかに身を守るためである。
外敵が間近に迫った時、外開きと内開きドアではどちらが速くドアを閉じることができ、外敵の侵入を防ぐことが出来るかといえば、内開きなのは明らかだろう。
内側からドアを閉じる方が速いし安全なのだ。
しかも内開きドアの場合、その内側に様々な物を置いてドアの厚みを増すこともできる。

 結局、ドアの役目は洋の東西を問わず昔からセキュリティだったのだ。
にもかかわらず日本では個人宅のドアがなぜ外開きになっているのか、アメリカでは内開きのままなのかといえば、日本では国内での戦争がなくなったからドアを内開きにする必要性がなくなり、機能面から外開きが多くの場面で取り入れられたということだろう。
 それでもまだホテルのように不特定多数の人間が出入りするところではセキュリティの面から内開きのままになっているといえる。
 ただ、最近は日本社会も犯罪が増え、安全神話が崩れてきたから、近い将来、内開きドアの採用が復活するかもしれない。



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