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認知症は生きる知恵かも(3)
〜正常を保つために忘れていく〜


 とにかくこの段階が私自身は一番苦しかった。なんといっても愚痴話、マイナスの話はこちらにも負の影響を与える。精神的によくない。かといって、「その話は何度も聞いた」「もうやめろ」などとでも言おうものなら、母はより孤独感に陥るだろう。「息子だから愚痴を言っているのに、その息子にまで愚痴を聞いてもらえないのか」と、一度ならず言われたこともあるし、ある時など「お願いだから怒らないでくれ」と言われビックリしたことがあった。
 「怒ってないだろ」と言ったが、認知症を患った相手は言葉ではなく、表情や声の調子を敏感に感じ取るようだ。「怒られると、よけい訳が分からなくなる」と泣き出したのを見て、もしかすると私の態度が母の認知症を進めているのかもしれないと反省した。
 頭では常に理解しているのだが、時として感情が先走りそうになる。それを抑えながら接するにはどうすればいいのか。この頃はそれを自問自答し、悩み続けた日々だった。

毎回繰り返される会話

 昨春、母を福岡のグループホームに入居させてから認知症に変化が見られた。最初の内は2日に一度、いまでも週1か2週間に三度の割合で面会に行っているので以前ほど寂しがらなくなったが、その間も認知症は確実に進んでいた。
 いまではつい先ほど自分で言ったことを忘れ、まるでテープを巻き戻すように何度も同じことを質問したり話したりするようになった。ただ、こちらも対応にかなり慣れてきたので、何度同じ話をされても初めてその話を聞くように答えられるまでになった。二人の会話を第三者が聞いていると「おかしいんじゃないの」となるに違いない。
 実際、入居者の中に一人、それほど認知症が進んでない人がいて、そのおばあちゃんは私を含め他の入居者達との会話が我慢できないらしく「何度も来られているじゃない」「この人はおばあちゃんの息子さん。何度言えば覚えると」と、面会に訪れる私に興味を示し、毎回、同じ質問をするおばあちゃんに教えようとする。だが、相手はそんなことを分からない。認知症を患った人にとっては、その瞬間瞬間が現実なのだから、例え3分前に見たり聞いたりしたことでも、いま目の前にある光景こそが初めて見る光景で、3分前の光景は完全に消し去られている。
 かくして、私が訪れると毎回次のような光景が数分おきに繰り返される。
「こちらはあなたのご主人?」とAさんが母に尋ねる。
「主人なわけないでしょ。息子。長男です」と母
「えっ、息子さん? 初めて見た。いい男ね」
「なに言いよんしゃると。もう何度も見えられとろうが。こちらはおばあちゃんの息子さん。何度言えば覚えると」と認知症がほとんどないBさんが多少イラついて教えようとする。
「まあ〜息子さん。いい男ね。惚れ惚れするわ」とAさん
「ありがとう、ほめてくれて」と母

 私がグループホームを訪れると、まるで決まり事のように、こうした会話が繰り返される。皆、認知症とはいえ、いつもと違うものを見たり、いつもと違う人と話をしたいという欲求、好奇心、刺激を求める精神があるのだろう。母自身もよく訴える。「また来てね。身内の顔を見れば刺激になるから」と。

正常を保つために忘れていく

 直近のことは忘れるが、昔のことはよく覚えている。それが認知症の特徴と言われているし、そう思っていた。だが、母と話していて記憶が段階的に微妙に変化していくことに気付いた。既述したように少女期の話が多い時期と、姑等に対する愚痴が増えた時期へと変わり、いまは愚痴が減り、むしろ感謝の言葉を口にするようになった。
 脳が委縮し、思考する力が衰えたのだろうが、ある時何かの拍子に「おじいさんのことは覚えているけど、おばあさんのことは覚えてない」と母が口にし驚いたことがある。どうやら記憶から姑に関する嫌な記憶が消えたというか、消してしまったようだ。
 記憶があれば楽しいこともあるが、その逆もある。だが長年生きていればいいことばかりではなく、嫌なことも数多くあるだろう。記憶から嫌なことだけ消せればいいが、そういうわけにもいかない。それならいっそ記憶そのものを消し去り、いまを生きる方がいいかもしれない。そうすれば穏やかな気持ちで毎日を過ごせる。
 いまを生きる知恵−−それが認知症ではないだろうか。神が与えてくれた力、認知症。そう考えれば認知症も悪くはない。
 人は彼岸に行く前、すべての煩悩を捨て去る。母は煩悩を捨てる準備を少しずつ始めたのかも分からない。

デル株式会社


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