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 3流人生だから見えたこともある。


 「5つ神童、10で天才、20過ぎればただの人」とはよく言われるが、多かれ少なかれ大半の人は似たような人生を歩んでいるのではないだろうか。
 かくいう私もご多分に漏れずその典型で、1浪して入った大学が国立大とはいえ四国・松山の小さな大学。学生生活も2、3年目ともなれば1時限目と4時限目の授業は極力避けて、「坊ちゃん」よろしく道後温泉に朝から浸かるノンビリした学生生活を送っていた。
 1年半の一般教養が終わり専門課程に上がる時、学部外の哲学に進むことを決意し転学部試験を受けたが、ゼミに入りたい(当時、哲学にはゼミ制度はなかったが)と考えていた先生の所に行き、専攻後は先生の指導を受けたいと伝えた。
 すると、就職のいい理工系から就職の悪い哲学に来なくても、と反対されたが、その時、先生から一般教養で哲学の授業を取ったことがあるのか、その時、自分は「優」「良」「可」の何をあげましたかと聞かれたので、「可」でしたと答えると、笑いながら、「そうですか。”可”でしたか。まあ、一般教養の授業と専門は違いますから。専門の授業は頑張ってください」と慰められた。
 そう言われて、低い点しかもらえなかった学科に試験を受けて移るというのは、一般的にはおかしいことなのだと初めて気付いた。どうも私には少しほかの人の感覚とは違うところがあるようだ。いずれにしろ、転学部試験の後で先生から「哲学の成績はよかったですよ」と言われたから、先生も多少は不安だったのだろう。

 当時は大学を取り巻く諸問題があり卒業を1年延ばしたから、高校の同級生とは2年遅れて社会に出た。といっても、就職も就社も明確な目的意識はなく、九州で就職したのも、まあ多少成り行きみたいなものだった。
 入社したのは日中貿易も行っている小さな会社だった。希望は貿易事務だったが、配属というか放り込まれたのは小売りの現場だった。「現場を知らなければダメだ」という理由で。
 以来、在籍中の4年間、一度も貿易事務のことは教えられず、ひたすら現場で鍛えられた。ただ、仕事時間外ならいつでも社長室に来て話をすることが許されたのと、月に一度、社長宛にレポートを提出することを指示された。
 いま考えれば、これがよかった。
現場でものを考えるという習慣は、この頃から身に付いたようだ。

 その会社に在籍していた最後の3年は宮崎にいて、橘デパートの都城支店出店とその後の倒産に至る過程を見ることができたのも幸運だった。
 橘デパートにテナント出店して3か月間は本社が出した売り上げ目標に届かなかったが、それは宮崎の状況を知らずに立てた本社の数字が間違っている、と考えていた。その通りに社長宛のレポートにも書いた。
売れない営業マンがする言い訳と同じだ。
 宮崎の民力数字を入れたりして書いたレポートだったので、これで本社は数字を下げてくるだろうと考えていた。

 ところが、月に一度の営業所会議が終わった後、社長室で話をしていると、社長から「お前のレポート、読んだ。一つ聞くけど、真剣や」と言われた。
それだけだった。
売り上げ数字がノルマだとも、本社が間違っているとも言われなかったが、社長が言わんとしていることは分かった。
 出された数字は達成しなければならない。
そのためにはどうしなければいけないのか。
それを考えた。
本も読んだし、よその店を見にも行った。客の行動心理学も勉強した。
努力の結果、2か月後には数字をクリアすることができた。
 人間、その気になって物事を見れば案外見えてくるものだ、ということが、この経験で分かった。

 デパートは場所貸しの不動産業みたいなものだから、売り上げがよくなると向こうから色々言ってくる。やれ催事をしてくれとか、都城店をオープンするので、そこにも出店してくれと。
 本社は都城支店への出店判断を当時26歳ぐらいの私に任せた、というか、「お前はどう思う」と聞かれたので、出店しない方がいい、と答えた。
もちろん、その前に情報収集をし、都城市にも足を運び、アクセスの問題、競合店との関係などを実地に自分の目で判断した。
 その結果、ノーと言ったのだが、一つにはデパートの都城市への出店そのものが、デパートにとって意義あるものと思えなかった。
なぜ出店するのか、私には理解できなかったのだ。もちろん、社会経験も業界経験も、いわんや経営実績などない若造が考えることだから、デパート側の考えに及ばないことは分かっていた。だからデパートが出店・開店するのはいいとしても、こちらがテナントとして出店するメリットはないと判断した。
 そう判断し、本社もそのように決定したが、果たしてその判断が当たっていたかどうかその後も不安だったので、オープン後1年前後まで何度か現地に足を運び、その後の様子を見て回った。
 足を運ぶ度に人の入りが減っていたので、出店拒否した判断は間違っていなかったと胸を撫で下ろしたが、その後、橘デパート都城店は閉店することになった。

 この頃から同デパートの経営がおかしくなり始め、テナントの売り上げ入金が遅れだした。
 テナントを集めての説明会があったが、若造の私などは一番後ろの席で、社長の説明を黙って聞いていたが、「あっ、この人は進む道を間違えた」と思った。婿養子だったが、デパートの社長ではなく、官僚になっていれば成功したのに、と思ったのだ。
 なぜって、入社以来、社長から「商人は同業者からあの人はいい人だと言われたらおしまい。それは嘗められているということだ」と教えられていたから、その教えに従えば、この人は商人ではない。商人でない人がトップにいれば、この難局は乗り切れないだろう、とまたまた経験不足の頭で考えた。
 そういえば先代社長(創業者)は名前の「後藤(ごとう)○×」をもじって「強盗(ごうとう)○×」と揶揄されていたと聞いたことがある。その話を聞いた時、それぐらいの男だからここまで会社を大きくしたのか、と納得したものだ。

 2回目にテナントの売り上げ入金が遅れた後、社長から突然電話がかかってきて、やはり「お前はどう思うか」と問われたので、即座に「撤退した方がいいと思います」と答えた。

 その後、デパートのテナントから撤退し、博多へ帰った私は会社を辞め、ほかの業種に転職。その後も2、3転職し、最終的に独立して、いまのような仕事を始めたのだが、転職の度にとても苦労した。
 飛び込みセールスの経験もあるし、固定給より歩合給の方が何倍もあり、ほとんどフルコミッションとかわらないような会社で仕事をしたこともあるが、転職の度に非常に苦労した。
 子供の頃、親から「お前は人付き合いが悪いからサラリーマンに向いてない。研究者になった方がいい」と言われていた。
実際、自分でもそう思っていた。ましてや、九州に来ることも、転職を繰り返すことも、自分では想像もしていなかった。
 しかし、人生はどこでどうなるか分からないものだ。
苦手と思っていた営業をし、転職した会社で「数字がゼロの奴は辞めろ」と毎朝、怒鳴られ、それでも数字が悪くては絶対辞めない、と決意し、野球でいえば、なんとかベンチ入りを続けてきた。

 こうした経験がいま役に立っている。
3流人生を歩んできたから、見えることがある。
できない言い訳をしたくなる気持ちも分かる。
できる奴はスゴイなとも思う。
たしかに一流とか、トップになるにはセンスが必要。
センスがなければ1流にはなれないかもしれない。
だが、センスがなくても1.5流か、2流にはなれる。
営業は科学だから、誰でも方程式を見習えば答えは出せるのだ。

 こうして私が掴んだものを、「栗野塾」を通して、少しでも皆さんの役に立てることができればうれしいし、そうしたいと考えている。



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